2012年, 2月のブログ

2012年2月25日 

人生の海の嵐に揉まれ来しこの身も 不思議なる神の手により命拾いしぬいと静けき港に着き我は今安ろう 救い主イエスの手にある身はいとも安し

 聖歌472番の歌詞です。確かに私たちの人生の中で嵐と思えるような時を経験します。そんな中で私たちはどのような態度でその嵐と向き合っているでしょうか。

 確かに、 主のみこころを求めて、主に従って歩んできている?のに、嵐の中を通ることもあるのです。弟子たちは、イエスさまといっしょに船に乗り込んでガリラヤ湖を渡っていました。イエスさまが行こうとおっしゃったからです。そんな中で、突風が吹き荒れ、彼らは危険を感じて、どうにもならなくなって混乱してしまい、眠っておられたイエスさまを起こして溺れて死にそうです。と訴えました。イエスさまは、嵐を静められ、弟子たちにあなた方の信仰はどこにあるのかと戒められました。

 さて、私 たちは、嵐の中でどのような行動をとっているのでしょうか。この話を見るとき、どうして弟子たちは、イエスさまに責められたのだろうとは思いませんか。弟子たちは、イエスさまを起こし、イエスさまに頼っているのに。もし自分の身に同じようなことが起こったらどうしたでしょう。
もしも、みこころだと信じて宣教旅行に出かけて、飛行機に乗っていて乱気流に巻き込まれてきりもみ状態で飛行機が急降下していたら、私たちも同じように、パニックになって、怖くなって、イエスさま!と必死に祈り助けを求めるのではないでしょうか。そこでイエスさまが「あなたの信仰はどこにあるのです。」
・・・考えてしまいます。もちろん、飛行機は平常に戻っていますが・・これは極端な話で、そんな状態で必死にイエスさまを呼び求めることが悪いと言っているのではないのですが。私たちの人生、信仰の歩みの中でも、そしてまた教会が前進していくそんな中でも、決して嵐がないわけではないのです。ときとして嵐は起こるのです。しかし、私たちにはキリストにある完全なる勝利が与えられているのです。信仰があれば嵐はきれいさっぱりなくなるというわけではないのです。決して聖書にはそう書いてあるわけではありません。私たちは、間違った期待をしてはいけないのです。信仰生活において決して嵐は来ない、いつもすべてが思うよう
にバラ色の人生を歩めるんだといった間違った期待が、なんで主とともに歩んでいるのにこんな嵐の中を通らなければいけないのかといった、主に対する不平や疑いをもたらし、そしてそれが失望へと発展してしまうのです。イエスさまに対する信頼は鍵です。
 

弟子たちは、嵐の中でイエスさまの偉大な御力をさらに経験しました。信仰によってイエスさまと同じ船に乗り共に歩むということは、たとえどんな状況にあっても、その途上で自分たちの思い通りにならないそんな困難にあったとしてもそれでもイエスさまに信頼し最も安全な道を進んでいるということなのです。

主に信頼して前進していきましょう。正しく期待して。       
M.H


2012年2月18日 

「ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない、-ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ」       ―ちくしょう谷-山本周五郎著

私たちが受けた赦しはどのようなものでしょうか。私たちが受け取った救いは、ただ一方的に神さまが私たちを愛してくださり、罪びとであった私たちのために、イエスさまが十字架にかかり死んでくださり死の力に勝利し、よみがえって下さったのです。私たちに罪の赦しと永遠の命をくださったのです。私たちは恵みのゆえに信仰によって救われたのです。神さまからの大きなプレゼントを受け取ったのです。私たちは、これから先は赦せないというのではなく、完全な赦しを恵みによって受け取ったのです。

『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけ い愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』 ルカ7:47

この女は知っていました。自分がどれほどの罪びとであるのか、赦されなければならないものであるということ を、そして、自分が赦されているということ、それがどれほど大きなことであるのかを。そんな思いがとどめられずに、イエスさまの御足を涙でぬぐい口づけをし、香油をぬるという行為に突き動かされたのです。決して、まず、イエスさまを愛したから、それもいっぱい愛したから、そしてそんな行為を行ったから、人より少し多めに赦されたということではないのです。私たちは、完全に赦されたものとしてクリスチャン生活を送りながらも、ときどき、何かの行いで自分がもっと赦されるとか、もっと、きちっとしなければ救われない。そのように考えてしまうことはないでしょうか。自分が赦されたのは、イエスさまのために何かをしたから、イエスさまを愛しているからと。だから、今も何かをしなくちゃと。そして、自分が何かできないからといって自分をダメなもの、赦されていないもののように感じ、落ち込んだりはしていませんか。また、逆に自分は、こんなに立派にやっているから人より優れているんだと(パ
リサイ人のように)なって、そんな目で人を見て、人をさばいてしまってはいませんか。私たちに求められることは、赦されるために自分が何かを行うことではなく、自分が完全に赦されたものとして、恵みを覚えて、自分がどれほど愛されているかを知って、私たちの主イエスさまを愛することなのです。そして、その愛が自分自身の生活のすべての動機となることなのです。M.H 


2012年2月11日 

バレンタインデーといえば、女性が男性にチョコレート をプレゼントし、愛を告白する日などと日本ではされています?した?(近頃は様々な形となっている)が、その由来は、3世紀のローマで、聖バレンタインという方が、結婚が禁じられていた兵士たちを結婚させてあげ、そのために処刑された日だとのことです。一般的にそのほかにも、諸説いろいろあるようですが、どれも結婚や男女の交際に関係したもののようです。

 現代の社会問 題の一つに、家庭の崩壊ということが挙げられるのではないでしょうか。身近な私たちの周りを見てみても家庭が崩壊している、崩壊寸前といったようなそんな状況を目にします。そして、往々にして、犠牲をこうむるのは子供たちではないでしょうか。健全な家庭を築きあげることは、私たちにとって急務です。口で言うのは簡単ですが、どうすれば健全な家庭を築けるのでしょうか。それは難しく厄 介な問題です。その重要な一つのカギは、より良い結婚にほかなりません。そして家庭での夫婦の関係が、健全であるかどうかということにかかってくるのではないでしょうか。
 

今日いっしょに、健全な家庭について、結婚とは、また夫婦の関係について考えてみましょう。キリスト教の中心は、私たちとイエスさまとの人格関係にあるといえると思います。その関係を聖書は結婚にたとえています。キリストは私たちの花婿であり、私たちはキリストの花嫁であると言っています。そのような人格関係において最も大切なこととして問われるのは、お互いに対する真実であるのではないでしょうか。結婚によって結ばれた二人が共に相手を愛し、理解し、尊敬することを学びながら人格的に一つとなるのです。それはまさに一生をかける大事業といえるのではないでしょうか。

 キリストは、 罪や弱さに満ちた私たちを愛してくださり、私たちと一つとなるために、ご自分の命をささげて下さいました。そんなキリストの愛と忍耐、そして痛みの一端を、結婚を通して私たちが体験する、そこに私たちの結婚の大きな意義があるのです。結婚にはそんな覚悟が必 要なのではないでしょうか。もうすでに結婚している方、今からでも決して遅くはありません。今日より早い日はないのですから、覚悟を決めましょう。そして、これから結婚をする方、しっかりとした覚悟でより良い結婚をし健全な家庭を築きましょう。
 

結婚は好きと か嫌いといった感情だけで成り立つものでは決してありません。なぜなら、相手を愛することも、理解することも、尊敬することも感情でなすものではなく自分自身の決断だからです。一時的な感情に流されたり、利己的に生きるのではなく、私たちが生活の中で覚悟をもって、その決断を日々なすとき、健全な家庭と私たちの家庭が変えられ、そこにキリストのかおりが満ち溢れ人々が引き寄せられてくるのです。M.H


2012年2月5日 

私たちジーザス・ファミリーが一つとなって、神さまからの励ましと祝福をいっぱい受け取った、そんな素晴らしいアガ ペ研修会でした。研修会に参加できなかった皆さんも、ぜひCDを聞いて下さい。そして一緒に心合わせて主に従っていきましょう。私たちは家族です。主の御約束を信じて大いに主に期待し、信頼し、前進するときだと確信しています。さあ、いっしょに信仰の目を上げて、イエスさまから目を離さず勇気を出して働
きましょう。

私たちが行くべき、さらに深みへと、ひとりひとりが、しっかりと焦点を合わせて、やるべきその一事に励もうではあり ませんか。主がともにいて下さるのですから。

勇気を出せ。働け。

その盲人は主に期待し、大声で叫び立てました。

「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」黙らせようとまわりの人たちが、たしなめようがお構いなし に。イエスさまは、立ち止まって、その人を呼び寄せて「私に何をしてほしいのか。」とたずねました。その男は、「目が見えるようになることです。」とはっきりと自分の必要を知っていて、それを主に願いました。イエスさまは「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。そして、彼は目が見えるようになり、イエスさまについて行ったのです。

この盲人は、イエスさまに期待して叫びました。 イエスさまなら願いを聞いて下さると信仰を持っていました。言いかえればイエスさまに信頼していたといえるでしょう。私たちはどうでしょう。期待しているでしょうか、信頼しているでしょうか。そして彼は、目が見えるようになり神をあがめながら、イエスさまについて行くという最高の生き方へと変えられ、彼の 人生は前進していったのです。  

以前は盲目の物乞いでした。イエスさまが、自分のそば近くを通られる、ということを群集の動きで知るまでは、何の期待もない、失望の人生、どん底の人生だったでしょう。しかし、彼は敏感に群衆の動きに耳を傾け、これは何事かと感じとり、人に訪ね たのです。

私たちも敏感でありたいものです。また、謙遜でありたいものです。

まわりでイエスさまが、なしておられることに対して注意しているでしょうか、耳を傾けているのでしょうか。それが、 どのようなことか、よくわからないとき人に尋ねる勇気と謙遜さを持っているでしょうか。そして、イエスさまに期待しているでしょうか。そんな信仰を持っているのでしょうか。きょう一緒にこの盲人の信仰か ら学びましょう。そして、私たちも目が開かれて。期待し、信頼し、前進していこうではありませんか。M.H