2012年, 3月のブログ

2012年3月24日 

 

 ある方が、おしゃっていました日本の文化は和の文化である。和とは和風の和ではなく、「和をもって尊しと成す」の和であると、日本人の大好きな言葉です。しかし私たち、クリスチャンは、そう聞くと、それがあたかも、横断歩道みんなで渡れば怖くないといったような、右へならえ的なもので、あまりよくない印象というか、何か悪い生き方のようにとらえてしまいがちです。もちろん、私たちは、神さまにあって、ひとりひとりがユニークなものとして、価値あるものとして造られたものです。しかし、そのことを強調するあまり、いかにも、いっしょであることや、一つであることを悪いもののようにとらえて、何か自分の人といっしょの考えや、振る舞いが悪いことのように考えて、どこか違った、個性的な自分でなければとがんばってしまってはいないでしょうか。

 だからどうか、長いものには巻かれろ、朱に交われば赤くなるといったことは、あまり歓迎されないようです。もちろん、間違った権力に支配され、その中に巻かれてしまって、事なかれ主義で自分をなくすことや、明らかに、この世的な色の中に染まることはよくないことですが、しかし、神さまは、私たちがひとつとなること、一致することを求めておられるのです。ある意味では、「和をもって尊しと成す」に通じるものがあります。和、言い換えれば調和、一致、一つとなることといった言葉は、確かにすばらしい言葉ではあります。でも、どうやって、何によって和をもつこと、一つとなることができるのか、なぜ、何のために和をもたなければ、ひとつとならければならないのかを知らなければ、難しいし、むなしい言葉で終わってしまうのではないでしょうか。

 教会は、ひとつのからだとして、ひとつひとつのそれぞれの器官が結び合わされ、それらがそれぞれの役割に応じて機能し、この世界の中で、神の栄光をあらわすものとされるのです。私たちは、今このときにここに集められています。そして私たちは、キリストのからだなる教会をたてあげるのです。ひとりひとりは、ユニークで尊い存在です。それぞれに応じた賜物が与えられています。ひとりひとりは、ひとつのからだの器官としてなくてはならない存在なのです。そして、それらを互いに認め合って、受け入れあって、それぞれがキリストによって結び合わされて、ひとつのからだとなりキリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。今日、私たちは、キリストのからだなる教会として、一致してひとつとなることについて、いっしょに考えてみましょう。

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。 

                           エペソ4:16

 

                               


2012年3月17日 

私たちは“~年間の歩み”という風に「歩み」という言葉を使います。聖書は色んなストーリーが書かれているわけ ですが、つまりそこには色んな「歩み」が書かれていると言えます。

アブラハムが、息子イサクをささげるために山へ登っていくという「辛い歩み」がありました。モーセがイスラエル 人を紅海を通って解放するという歩みがありました。イエスさまの歩み、パウロの歩みなどさまざまな歩みがありました。

そして今日、一緒に見て いきたいのはペテロが舟から降りて水の上を歩いた歩みです。

この歩みを印象づけているのは、「何の上を歩いたのか」、「誰と歩いていたのか」ということだと思います。ペテロは波の上に踏み出した時、すばらしい歩みを経験していたと思います。

私たちの人生には、神さ まがご自分の方に歩むように呼ばれる、そういう人生の場面が必ずあります。そしてそれに「はい」と答えるとき、神さまの力が働き、体験します。仕事・学校・家庭において、人間関係において、リスクをとって決断していくことは、何とも言えない恐れに立ち向かっていくことが必要になると思います。なぜなら、それはあなたが“何であり、何をするのか”という核心に迫るものだからです。逆を言うと、リスクを取らずに決断していくなら、それらの核心(自分が何者で、何のために生き、何をするのか)に触れずに生きていくということが 起こるわけです。

私たちは毎日、この地球 上で人生という旅を歩んでいます。そしてこの旅は一度きりです。だから私は思います。危険を冒してでも踏みだし、冒険する歩みがしたいと。皆さんはどうでしょうか?気球のカゴの高さがもう少し高ければもっと安心して乗れるのにと思うこともあります。もちろんすべて良くなると信じようとすることもできます。でも、問題の核心は、「操縦してくれる人は誰なのか、その人は信頼できるだろうか」ということです。

 舟から降りて、キリストとともに水の上を歩いたペテロの話は、聖書に書かれている究極の弟子の姿を描いた出来 事の一つだと思います。だからこそ、今日、皆さんを、この歩みに招待したいと思います。水の上での歩みにです。

でもまず、これだけは頭に入れておいてください。

もし水の上を歩きたければ、舟から降りなければいけないということです!


2012年3月10日 

東日本大震災から1年。いまだ復興が進まず、不便な生活を強いられている方々がたくさんおられます。そして、何よりも多くの人々の心の傷はいやされてはいません。主の愛と憐れみが、今も苦しみの中にある人々の上に豊かに注がれるように、人々が主と出会い本当の平安を得ることができるように、私たちも心を合わせて祈りましょう。

仮設住宅に暮らす人々、仮校舎で学ぶ子たち、仮会堂で礼拝を守るクリスチャン。しかし人生の仮はないのです。ひとりひとりがそこで仮ではない人生を歩んでおられるのです。厳しい現実に向き合い、今をひたむきに生きておられる方々の記事にふれ、また、映像を見たりすると自分自身の生き方を問われているようで、気が引き締められます。人生に仮の人生がないように、主に仕える者として、主に従う者として、生きることに仮はないのです。一事に励み、一心に走り通したいものです。仮設御国をいきる、仮クリスチャンになりたくはありません。

今週もいっしょに集い、神さまのみ前で神さまに心からの礼拝をささげ、主の御心を求めて主に励まされ、造りかえられ前進して行きましょう。期待!信頼!前進!

夫に先立たれ、何もかも失ってしまった女性が、預言者エリシャに叫んでいます。

助けて!このままでは、子どもたちが奴隷にされてしまいます。私の夫は、神さまに仕えた人だったのに、神さまの御業のために生きそして死んだにもかかわらず・・どうして・・貸主が来て子どもを奴隷にするなんて・・・エリシャは答えます。何をしてあげようか・・・沈黙・・・あなたは何を持っていますか、言いなさい・・・そして、女は自分の手もとに唯一残っているものを示しました。小さな油のツボひとつです。エリシャは、女にそれを用いてなすべきことを語りました。空の器を集めてきて、その器に油をつぎなさいと。
えっ、いったいどういうこと・・・
こんなの多くの器に・・・このツボから・・・しかし、女は、何も疑うことなく言われた通りの事をしました。私たちも、そのような素直に従う信仰を持ちたいものです。そんな中で、神さまが奇跡をなしてくださるのです。エリシャが何かの行為を行ったわけではありません。ただ、すべきことを語ったのです。何か特別な道具を与えたのではありません。女が持っていた小さな油のツボと、だれでも簡単に、手に入る借り物の器を使って、女はすべての負債を返したばかりか、今後の自分たちの暮らしの保証まで得たのです。

今日、このところからいっしょに考えてみましょう。私たちの家に、何があるのでしょう。ひとりひとり、何を 持っているのでしょうか。それらをさげすんではいないでしょうか。こんなものが何になると思ってはいないでしょうか。    M.H


2012年3月4日 

私たちジーザスファミリーは自分たちが生き、そして他のまわりの者を生かす神の家族です。そしてそれはひとりひとりが生かされ、目的にかなう器へと変えられることなのです。自分が生き、そしてまわりの人々を生かすものとなり、この町にあって力強く敵を打ち破る、そんな打穀機へと変えられるのです。私たちは虫けらで終わるものではないのです。なぜなら主が私たちを今このときに、このところに、この素晴らしい家族として置いてくださっているからです。そしてこの家族に期待してくださっているのです。
 

私たちは、神の家族だから何も問題が起こらないのでしょうか?この世の家族を考えたら、いろんな問題でいっぱいです。同じように、神の家族の中でも決して問題が起こらないということはないのです。しかし、私たちはその中で必ず解決があり勝利が与えられているのです。なぜなら、私たちの内には、神の愛が流れているからです。私たちは恵みの中に歩んでいるからです。そして、私たちには素晴らしい夢があり使命が与えられているから、そこに目を上げ、そこに期待し、前進していく時私たちの問題は主の勝利へと変えられていくのではないでしょうか。
 

今日、私たちは家族としてここに集まっています。いっしょに、私たちの夢そして使命について考え確認し、共有し前進して行きましょう。今、私たちは、センターの移転という大きな問題を前にしています。経済的な逼迫があります。いろんな制限があります。その前で自分たちがまるで虫けらのように感じて自分たちはもう駄目だと悲観的になってそしてそんな風に感じている自分たち自身に目を向けて卑下し落ち込んでしまいます。でもそんな風に思わなくてもいいのです。神さまの目から見ても私たちは小さいものだからです、虫けらヤコブなのです。しかし、そんな私たちに期待の目を寄せ、計画を持って下さり、打穀機へとつくりかえて下さり、夢を与え、使命を与えて下さり、いつもともにいて導いて下さるイエスさまがいて下さるのです。私たちは、ただイエスさまに信頼して前進していくだけなのです。私たちがイエスさまから目を離さずに、夢に向かって、与えられた家族としての使命と責任を果たしていくなら、私たちの前のどんな大きな問題も風に吹き散らされる籾殻のようになっていくのです。イエスさまは、
言われました。からし種ほどの信仰があれば山も動くと。そんな信仰を働かせるときです。今こそ心を合わせて同じ夢を見て、神の愛の中で与えられた使命を果たそうではありませんか。私たちは、神の家族として。
                             M.H