2012年, 5月のブログ

2012年5月27日 

  近年、「ケア」という言葉が少しずつ浸透してきました。それは介護などの“ケアマネージャー”という言葉をよく聞くようになったからかもしれません。「ケアする」というのは、いわゆる“世話をする”とか“配慮する”、“注意を払う”という意味です。そして、そういう意識を持って人を見、接し、寄り添い、関わっていくことです。この社会に生きるものとして、私たちが「人間」というものをどの様に見、評価するのかということです。“私はあなたについてどう見ていけばいいのか”、その部分がズレている、ぶれてくると、同じ「ケアする」といっても結果は大きく違ってくるのだと思います。

最初から“あなたなんて大して価値がないし世話するのは嫌々なのだ、でも仕方がないからケアする”という関わり方と、“あなたは本当に大事な存在で、とにかくあなたのためにできることがあれば何でもやらせてください”という姿勢の違いでは結果は大きく異なるのではないでしょうか。たとえ同じことをやったとしても、、、たとえば母の日に同じようにプレゼントをしたとしても、“母の日だから仕方なく、、、”というのと“お母さん、あなたは本当に大切な存在なんです”というのとではどうでしょうか。

聖書の一番最初の書、創世記にはこのように書いてあります。

●創世記1:26-28

 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」。

  ここに大事なことが大きく分けて2つ書かれています。一つ目は、神さまは人間をご自分のかたちに似せて造られたということです。神さまの心を受け止め、鏡のように映し出す者、神さまの心に応えることが出来る者として人間を造られたということです。ということなので、人間は神さまと向き合い、神さまを映すというような生き方が神さまから望まれているということです。

 二つ目は、地を従える存在として造られたということです。支配というと何となく上からというイメージがありますが、実際のところは神さまの心を映し出す者として、神の心で生きている者を「ケアする」ようにということです。

 一体、聖書は私たちが人をどの様に見、どう評価し、接していけばいいと教えているのかということを一緒に学んでいきましょう!         

                                                                                    Y.K.

 


2012年5月20日 

 明日には処刑されるというその晩にペテロは牢獄から抜け出してきました。鎖につながれ、兵士の間で寝ているペテロに突然、御使いが現れ、彼を起こし、牢屋の外へと連れ出したのです。大勢の人が集まって祈っているところにペテロが現れたとき、みんなはにわかには信じることができず、ペテロを見た途端に非常に驚いたとあります。熱心に彼のために祈り続けていたのに…?!(使徒の働き12:1~17)

みんなはペテロが助かると信じもしないで祈っていたのでしょうか?決してそんなわけではなかったですよね。期待はあったのです。以前にも、御使いが牢屋から連れ出したことを経験していたのですから。そして、祈り続けていたのです。

 でも、その時の情況を彼らはみんな知っています。ちょっと前には、ヤコブが殺されました。ますます迫害がひどくなっています。情況がわかりすぎて、熱心に祈ってはいるけど、うーん・・・といった、感じだったのではないでしょうか。だからペテロが帰ってきたと聞いて、そんな馬鹿な、といった反応をしてしまったのではないでしょうか。なんとなくわかりますよね。私たちも、そんな祈りをしているときがあるのではないでしょうか。でも、この話を通して励まされます。完全な祈りだけが聞かれるのであったら、お先は真っ暗ではないでしょうか。主は、私たちの思うところ願いをこえて働かれるのです。祈りの答えは、祈る側の完全さではなく主の憐れみによるのです。だから祈りは、どうでもいいと言っているのではありません。彼らは、そのような情況の中にあっても、どうせ祈ってもだめだと祈りをやめてしまうことをせず、熱心に祈り続けていたのです。決して完全な祈りであったわけではないし、ある意味では、不信仰な祈りであったかもわかりません。しかし、神さまは教会のそんな祈りを聞いて下さるのです。祈り続けることは大切です。不信仰な祈りの奨励ではありません。不可能に思えるような情況であっても祈り続けようではありませんか。

ヨハネの兄弟ヤコブは、剣で殺されました(使徒の働き2:2)。教会は祈ってなかったのでしょうか?そんな風には決めつけられませんよね。私たちの理解を超えた神さまのご計画があるのです。

ダニエルの友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは自分たちの仕える神は、火の燃える炉から自分たちを救って下さる、王の手から救って下さると信じていました。もしそうでなくても、他の神には仕えないと宣言しました。救い出すことはできるという信仰とともに、もしそうでなくても信仰は変わらないと明言したのです。私たちもそんな信仰に成長していきたいものです。

                                             M.H

 


2012年5月13日 

  この間私は聞かれました。あなたのパッションというのか、あなたのビジョンは何ですか。答えやすいです。今の時期に、私たちは、新しい世代が自分に与えられている最高の召命を、特に、未伝の民族を弟子とする召命を、見出して、それをうまく実行させるコーチとして用いられたいのです。

 ニュージーランドの教会の中で、最高の召命が牧師やユース・パスターになることだという潜在意識があります。マレーシアの教会は、そうではありません。牧師になるより、教会生活とお金儲けの両方をうまく合わせることは最高だと思われています。そのような教会の文化とこの世のさまざまなプレッシャーの中で育っている若者は、どうして地の果てまで行くのでしょうか。どうやって、快適な生活をおいて、福音のために生きていくでしょうか。

 心をつくし、思いをつくし、知性をつくし、力をつくして、主を愛すること、それはカギだと思います。シュラムの女が勧められた愛はこういうふうに表現されています。「私を封印のようにあなたの心の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(雅歌8.6-7)。聖霊の助けによって、そのような愛が私自身の心にありますように!

                                                  G.F

 


2012年5月9日 

19世紀の巡回説教者ピーター・カートライトがあるとき説教をしました。

その会場には、当時の大統領アンドリュー・ジャクソンが来る予定になっていました。そこで事前に説教を準備していたカートライトにこのような注意があったそうです。

「今日の礼拝には、大統領が出席されるので決して大統領に失礼な発言がないように」と。しかしカートライトは説教の中でこう語りました。

「先ほど、アンドリュー・ジャクソン氏がこの礼拝に出席の予定なので発言に気をつけるようにといわれましたが、しかし私は、罪を悔い改めなければジャクソン氏も地獄におちるということを言わなければなりません」

説教が終わったあと、ジャクソン氏がカートライトのところにやってきてこう言ったそうです。

「私の連隊の兵士がみな、あなたのようだったら私は全世界を打ち負かすことが出来るだろう」

勇気ある行為、真の意味での大胆な行為は、良い結果をもたらすものです。

  ペテロとヨハネが大胆に語った時、それを聞いて大勢の人が救われました。また、人々はその大胆さを見て驚きました。(使徒の働き4章)

大胆ということばを、勇気を持つ、と置き換えてみてはどうでしょうか。勇気を持って生きる。勇気を持って語るべきことを語る。勇気を持ってやるべき事をやる。といいかえられるのではないでしょうか。勇気がある人というのは何でも恐れずに出来る人のことでしょうか。そうではありません、恐れないことが決して勇気ではないのです。本当に勇気がある人は、恐れの中で一歩を踏み出していくことが出来る人のことです。私たちの人生の中には恐れはあります。神さまの事を人に伝えようとしたら、さまざまな脅かしが来るでしょう。そのような中で大胆に一歩を踏み出して行くことが出来たら、大勢の人が救われるのではないでしょうか。ペテロとヨハネが大胆に語った時のように。

大胆って、どういうことでしょうか。ただ単にとんでもないことを思い切ってやることでしょうか。例えば、高所恐怖症でスピード恐怖症なのにジェットコースターに目を閉じて乗り込むことは、ある意味では大胆かもしれませんが、それは先に記したカートライトの大胆さや、ペテロとヨハネの大胆とは少し違うのではないでしょうか。

ペテロとヨハネが大胆になれた、勇気を持てたその裏づけ、根拠はどこにあったのでしょうか。今日少し考えてみましょう。そして、私たちもさらに大胆に生きようではありませんか、勇気を持って。ペテロとヨハネは無学な普通の人でした。しかし、二人はイエスさまとともにいました。聖霊さまに満たされ、大胆に語ったのです。

                                               M.H