2012年, 8月のブログ

2012年8月26日 

 

自分が救われているということの価値について考えてみたことはあるでしょうか。救われているということの価値を知っているでしょうか。私たちは毎日の生活の中で、物のもつその値打ちを見極めるということをしています。そしてそうすることはとても重要なことです。それは、私たちの生活のためのものについてだけでなくて、私たち自身についてもそうなのです。自分の人生の値打ち、目標として日々追及しているそんな事柄の価値、私たちに与えられたキリストにある救いの素晴らしさ。それらのものはどれほどのものでしょうか。

天の御国は、畑に隠された宝のようだといわれています。それを見つけた人は、大喜びで、持ち物全部を売り払ってでもそれを買い取ると、またよい真珠を探している商人のようだとも、素晴らしい値打ちの真珠を一つ見つけたら持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまうと。

私たちは、知らず知らずのうちに、神さまからの恵みがただであるかのように思ってしまいます。私たち受けるものにとって恵みは確かにただです。私たちはただで受けたのです。しかし、神さまは安物をいや、ただのものを与えて下さったのでしょうか。恵みを与えて下さる神さまの側では、大きな、大きな犠牲が払われていることを忘れてはいけないのではないでしょうか。私たちを救うためにキリストは、自分の命をも投げ出してくださったのです。そんな尊い救いを、神さまは私たちに惜しげもなく与えて下さったのです。私たちひとりひとりは、神さまの目には高価で尊い者なのです。十分すぎるほどの価値のあるものなのです。そして、私たちの人生を私たちは本当に価値のあることのために捧げているのでしょうか。

先週ファミキッズ&ジュニアのキャンプを持ちました。子どもたちが本当に価値あるものを知って、使命を知ってそれに人生をささげられたら、そんな人生を送るために今何ができるのかを考えてくれたらという思いで奉仕させていただきました。子どもたちがそれをどれほどキャッチしてくれたのかはわかりませんが子どもたちの心の中にきっと種は蒔かれ成長していると確信しています。これからの長い人生の中で、その重要なポイントできっとその種が芽を出し実を結ぶと信じています。

本当に今の世界の中には、価値を惑わすものが多くあります。天の御国の素晴らしさや、自分自身がどれほどの価値のあるものであるかということを分からなくさせてしまうものがいっぱいあるのではないでしょうか。間違ったものに価値を見出し、その奴隷となって人生をつぶしてしまってはあまりにもったいないのです。私たちは、いつもそんな危険にさらされています。天の御国がどれほど素晴らしいものか、その価値を安く見積もらないで、何を犠牲にしてでも手に入れなければならないものだということを知ろうではありませんか。                                    M.H

 


2012年8月7日 

 シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。                                  ゼパニヤ章14節

旧センターの引き渡しも、無事に終わり、この新しいセンターにイエス様音頭の歌声も高らかに、喜び踊り勝利を宣言し、私たちの主イエスさまをほめたたえる夏まつりです。

神さまはいつでも、私たちを導いて勝利の行列に加えて下さるのです。心の底から喜び勝ち誇りましょう。

今、ロンドンオリンピックが開催されていてそのテレビ観戦で、睡眠不足だとおっしゃる方もいらっしゃるのではないでしょうか。メダルを取った人、また残念だった人さまざまですが、自分のもてる力を精一杯出し切って戦う姿は私たち見るものを感動させてくれます。ついついテレビに見いってしまい、時のたつのを忘れてしまいます。

よく、テレビやまた新聞、雑誌などの記事で選手の親御さんのインタビューや談話が流れたり記載されたりしています。みな自分の息子や娘の活躍に目を細め感動し喜んでいる姿が伝わってきます。私も少し前ですが、オリンピック!?(中学校の運動会)で活躍する長男の姿をみて、息子の活躍を楽しみ喜びました。さすがに高らかに歌うことはなかったのですが・・・。

私たちの天のお父さまは、私たちの事をどんなふうに見て下さっているのでしょうか。私たちの父なる神さまは、私たちひとりひとりを愛して下さり、いつも私たちの内にいて下さって、私たちを喜びをもって楽しみ、言葉に表せないほどの愛をもって包んでくださり、私たちを日々新しくつくりかえて、私たちの事を高らかに歌って喜んでくださっているのです。しかも、天のお父さまは、私たちがオリンピック?で活躍しなくても、メダルを取るどころか、転んだり、躓いたり、失敗したり、時々成功しそして、またしくじっていたとしても、変わることのない愛で私たちを愛してくださっているのです。

そんな、ものすごく大きな神さまの愛にこたえて、私たちもすべての思い煩いをおいて、心の底から主をほめたたえ、主を喜び楽しみましょう。私たちは、愛されて、必要とされて、すべての勝利を与えているのです。もう、自分自身を小さく見るのはやめましょう。自分を価値のない者とみるのをやめましょう。そして、敗北者とみるのをやめましょう。私たちは、主にあって圧倒的な勝利者なのです。さあ。喜び勝ち誇ろうではありませんか。

                                             M.H

 


2012年8月7日 

私たちが、健やかで充足した人生を送るためには、ただ、からだが健康であればいいというわけではありません。それも大事ですがもっと大切なことがあります。それは魂が健康であることです。私たちは体の健康のためには、生活の中でいろいろなルールをもっています。たとえば、適度な運動をすることや、食生活に十分気を配るなど、しかし、魂の健康についてそのようなルールを持っているのでしょうか。

ということで私たちは、2回にわたって十戒を通してその魂の健康についていっしょに学び考えてきました。今日はその3回目です。

私たちは最初、畏敬の念を育むことの大切さ、畏敬をもって人生を歩むことの重要性を、そして、まことの神を神とすること、偶像を造ってはならないこと、どのようなものが偶像となるのかといったことをいっしょに学びました。主の御名とは、みだりにとは、唱えるってどういうことか、それを日々の生活の中でどのように適応するのかということや、安息日の意味することは何なのか。ただ一週間のうちの一日を仕事をせずに過ごすということで終わらないように、安息日を守ることの意義は、またそのように生きるためには、どうしたらよいのかを考えてきました。そしてそれらは、十戒の前半の部分で、私たちの神さまに対する義務とでもいえることでした。

今日は、その後半の部分、人への義務についていっしょに考えてみましょう。この後半の部分はある意味では、キリスト教の社会でなくとも、当然のモラルであり当たり前の倫理であるといえるでしょう。しかし前にもいっしょに考えてきたように、前半の神さまに対する義務が教えられず、守られず、その重要性が理解されていなかったら後半の部分を真の意味で守ることはできないのではないでしょうか 

私たちが人間として他の人とどのように関わっていくのか、人に対して成すべきことは何か、またなすべきでないことは何かということを考えてみましょう。

そのように人に対する倫理を教える中で、十戒では、まず父母を敬うことから始まっています。「父母を敬う」それを私たちは、どのように理解し、魂の健康のために適応するのでしょうか。そして「殺してはならない」とは、そこから私たちの、命についてもいっしょに考えてみましょう。私たちが、本当の意味で殺してはいけないもの、守らなければならないものとは、どのようなことなのでしょう。