2012年, 10月のブログ

2012年10月21日 

 

アフリカの戦争孤児がバレエのスターになれるのでしょうか。

 

 あるアメリカのカップルが、1999年に、内戦によって荒れ果てたアフリカの国に行って、難民キャンプで孤児を引き受ける手続きを行っていました。そして、二人の女の子を選んだのです。しかし、ひとりの子どもが取り残されていました。皮膚病のために醜いと思われたので、だれも受け入れないだろうと言われていた子どもでした。だから、彼らは、その子も自分の子どもにして、アメリカに帰りました。

 

 その3番目の子、4歳のミカエラが、バレエに対して過剰に興味があることに気づいたので、バレエのDVDを買って、いっしょに観ました。子どもが150回観て、ステップを完全に覚えたので、次に、同じバレエの演奏をいっしょに観に行きました。ミカエルはプロのステップの間違いに気付いて、親に言えるまでこなしていました。

 

 実は、孤児院の中で、3歳の時に、残酷と苦しみしか知らなかったミカエラは、雑誌の一片にバレエの美しいイラストをたまたま見て、その一片を保管して、夢にも想像できない世界を想像し始めました。新しいお母さんがその夢を試してみるために、5歳にもならないミカエラをバレエ教室に入れて、毎日片道45分離れた所に通い始めました。お母さんの心はすごいと思いませんか。

 

 少しずつ進歩しましたが、自分の皮膚病を非常に気にしていたので、とてもシャイでした。ある日、バレエの先生に、「こんな皮膚が私のバレエの将来を妨げるかしら」と聞いて、先生は「何の皮膚?全然気付いていなかったよ。ミカエラのステップだけに集中していたの」と返事しました。その一言で、心の一つの壁が崩れたのです。でも、他の壁は自分の心の中のものではありません。やはり黒人のスターはきわめて少ないし、はみ出るのです。だからニューヨークの、黒人の多いバレエ団に入って、今年、17歳のミカエラがプロとしてのソロ演奏の初舞台を南アで踏みました。お母さんはどんな心で見ていたでしょう。

 

 気付いていると思いますが、最近のメッセージの中で宣教の報告をしながら、みことばを語っています。今日は、度々訪問するマレーシアのことを少し説明したいと思います。バレエやナザレのイエスさまと何の関係があるのでしょうか。とにかく、いっしょに考えたいことは、人(子ども、同僚、兄弟)を育てる中で:

 

 ①人が気付かない可能性を見抜いて、大胆に試してみる心は美しいです。ナザレにも奇跡が起こることを信じましょう。

 ②人が気付かない、また反対する、根拠があるでしょう。それを認めて、そこから学ぶことがあります。ナザレの空気は悪ければ、それを計算して計画しましょう。

 ③追求して、失敗することも当然ありますが、うまく行けそうだとしても、あきらめない忠実と調整が必要です。ナザレ出身でも、ベツレヘム出身でも、長年に渡るケアーを覚悟しましょう。                                    G.F

 


2012年10月17日 

 

最近何でもが複雑で難しくなりすぎてと、感じていらっしゃるあなた。そんなあなたによいお知らせです。なんだか通販のコピーみたいになってしまいましたが、私たちの生活を見てみると本当に複雑でややこしくなっているのではないでしょうか。そして信仰においても。なにか難しく、複雑なハードルをこえたら祝福が得られるみたいになってしまってはいませんか。もちろん、主に従うことは不可欠ですが。

七たび川に身を浸すだけ、そんな簡単なことでいいんですか、川はわざわざここまで来なくても私が住んでいるところにもっと立派な川があるのに、せっかくここまで来たのにあなたは私に会ってもくれないし手を置いて祈ってもくれないんですか。そんなことで私のこの病気が治るんですか、私が清くなれるもんですか、もうちょっと真剣に私のことを考えて下さい。アラムの王の将軍で勇士のナアマンは怒って帰ろうとしました。その時ひとりのしもべが言いました。もしもあの預言者がもっと難しいことをあなたに命じたらあなたは従ったのではありませんか。きっとあなたはそのようになさったのではありませんか。必死になって自分の力の限界までも行って、そこを根性でちょっと超えたらと言われたら、喜んで挑戦したのでは。

私たちも神さまに従うといいながら、神さまが何かを命じられるのは、単純なことではなく、複雑で難しい事なんだと思い込んでいて、本当に大切なことを怠ってしまってはいないでしょうか。いつも、何か難しいことを命じられると思ってしまい日々、主に従っていくということを。日常の生活の中で単純に主に従うことより、何かいつもドラマチックなことを求めすぎてはいませんか。誰か主に大きく用いられている器がやってきて自分のために何かをしてくれなければ自分は変われないとか、神さまは自分にとってもっと難しいことを要求されるそれを成しえたら自分に祝福がやってくるのだとか。そしてナアマンのように主がなしてくださること、主が語られることがあまりに簡単すぎて、もう、そんなことやってられない、自分にはもっと大きな経験があるのに、いまさら何を、みたいになってしまってはいませんか。もちろん神さまは、私たちに大きなチャレンジを与えられるし、時には難しいこと、恐れ怖気づいてしまうようなことも要求されるでしょう。しかし、神さまは、私たちにまず簡単に単純に従うということを求めておられるのではないでしょうか。それなのに私たちは、まず難しいことをクリアーしなければならない、信仰はこうあるべきだと固定観念を抱いてはいませんか。

 気を取り直して、経験やプライドを置いて単純に神さまに従った時、ナアマンのからだはもとどおりになって幼子のからだのようになったとあります。私たちも、もとどおりの幼子のような信仰を持とうではありませんか。神さまの命令なら何でもする。馬鹿らしいと思えるような簡単で単純なことでも、自分の限界を超えるような難しい事でも・・・

                                         

                                              M.H

 

 


2012年10月11日 

 

「どこへ行くのかわからなくて、本当にもう限界だという状況になったことがあなたにはあるかしら? それなのにまだ先に行けと押し出されるようなこと。私に起こったことを話してもいいかしら。

 

それは、夫が亡くなって2年後のことよ。この村での生活はその日暮らしで、常に苛酷だったけれど、その時は、もう3年以上も雨が降らなくて大飢饉だったわ。だれもが困窮していたけれど、私は完全に正気を失っていたの。小麦粉の瓶も底を尽き、息子と自分のためにほとんど何も残ってはいなかった。長く生き残れるようにと、できるだけ少しずつ小麦粉を使うようにしてきていたのに、もうあと一食分しか残っていなかった。『私はもう弱く疲れ切っているけど、這ってでも外へ行ってわずかのたきぎを集め、火を起こしてこの最後の小麦粉で最後の食事を作ろう。神さまが奇跡をなさらない限り、私たちはそのうち餓死するんだわ。』と思ったわ。私の力も信仰もまさに限界に来ていたの。もちろん、神さまに、助けてと叫んだわ。でも正直、あのように何にもない状況で何かが起こるなんて期待もしていなかったわ。

 

外に出てたきぎを探していると、変な男を見かけたの。村の者ではなかったわ。イスラエル人のような服を着ていて、ちょっと野蛮にも見えたわ。私が軽くお辞儀をしてその男の横を通り過ぎると、その男が私を呼び止めたの。そして、水を持ってきてくれって言うのよ!ええ、それは驚くべきことよ。イスラエル人は私たちと話をしない、ましてや私たち女性に話しかけるなんてことはないもの。普通なら、私たちのような者に何かを頼むなんてことは絶対ないのよ。でも、その男はまったく普通じゃなかったわ。私は混乱して考えたわ。『小さなことだけど、私に何かできるってことかしら?』って。

 

でも、その男は私の思いを完全に打ち砕いたわ。私がその男のために水を取りに家に戻ろうとしたら、私を呼び止めて、『ついでに、私のためにパンも持って来てくれないか』だって。家の中にもう何にもなくって、死にかけて、神さまに奇跡を願い求めている私に向かってよ!この狂った男は玄関先に来てパンをくれだって!この飢饉の時にどこでパンを手に入れろって言うのかしら!この村のお金持ちの家にでも行けばいいのよ。なんで私なの? まあ、とにかく、私は考えたことを思いっきりその男にぶつけたの。

 

わかる? あなたが自分が限界だと感じているときに神さまがもう一歩先に行きなさいと押し出しているような感じかしら。自分のことで精一杯と思う時に、神さまがあなたの思いを他の必要を覚えている人に向けさせ、自分のことを忘れて必要な人たちに手を差し伸べさせるの。神さまはあなたの必要ももちろん知っていてね。手を差し伸べることって、奇跡の始まり!その日、私は少なくともそのことに気づいたの。その男が私に何と言ったか知ってる? 信じられないことなのよ!あの本を開けて読んでみてごらんなさいよ。第一列王記17章8-16節にあるわ。実は、イエスさまも次に何が起こったかを語っておられるわ。ルカ4章25-26節よ。私の名前はそこには書いていないけど、イエスさまは私の名前を知っておられるし、もちろんあなたの名前も知っておられるのよ!」                                      G.F

 


2012年10月2日 

 

 まじめで、神さまの戒めを守ることにかけては、完ぺき。人をだましたり、人のものを盗み取ったりはしていないのにお金持ち。そんな青年がいました。かたや、貪欲で、よくばりで、人のものをだまし取り、人からも嫌われている金持ち。そんな男がいました。

そして、救われたのは、後者の方です。なんだか納得がいかないですよね。どちらも金持ちです。イエスさまは、前者の青年が、イエスさまの前から去ったとき、裕福なもの者が神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう、と言われました。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が簡単だとも。

しかし、富を持ち裕福であることが救われない条件ではなさそうです。後者も金持ちだったし、裕福で金持ちの基準はあまりにもあいまいです。

では、このふたりの男。金持ちの青年と、ザアカイの人生を分けたものはなんなのでしょうか。金持ちの青年は、悲しみながらイエスさまの前を立ち去りました。ザアカイは、救われました。金持ちの青年は自分の財産を人に分け与えることが出来なかったのです。ザアカイは、自分の財産(だましとって築いたもの!)を皆に返金しました。これが、救われるか救われないかの分岐点だったのでしょうか?決してそうではないのではないでしょうか。もしそうだったら皆さん、私たちはどうでしょうか。私はまあまあ裕福だ・・・?持ち物全部売り払って・・・?お金をもっているだからもう天国へは入れない!

イエスさまは、ザアカイに何も要求はされませんでした。ただ、あなたの家に泊まることにしてあるから、急いで木から降りてきなさいと言われただけです。そしてザアカイは急いで木から降りてきました。私たちが救われるのはどうやら、急いで木から降りることの方が、お金持ちであるかどうかや財産を売り払い人々に分け与えることより大切なのではないでしょうか。

お金持ちの青年の問題は、お金を持っていることではなく、それに頼り生きようとしたことではないでしょうか。ザアカイは何も考えないで、計算もしないでただイエスさまに呼び出されたその感動で行動を起こしました。木から降りてきたのです。なんでも戒めを守ってきた金持ちの青年は、イエスさまと出会ってどんな思いでいたのでしょうか、どんなことを考えたのでしょうか、いっしょに考えてみましょう。そして、私たちも時々同じようなことを考え、行動してしまってはいないでしょうか。私たちにとって大切なことは、イエスさまの呼びかけに答え、木から飛び降りることなのです。              M.H