2012年, 11月のブログ

2012年11月25日 

 

1)「父の家」にあなたの永遠の住まいが備えられています。

2)イエスが「父の家」への道を十字架を通して用意しました。

3)今もイエスさまともっと親しく交わりましょう。

4)父の家への道をまだ知らない人に、愛と知恵をもって、招きを届けましょう。

 

私たちを励ます3つの話を今日提供します。まずアリさんの話です。

アリはイスラム教の祭司でした。アリの父も祖父もそうでした。彼の専門は、キリスト教の改宗した元イスラム教徒に、誤った道に行っていると説得することでした。これが彼の証です。

「ある日、祖父が教えていたとき、預言者マホメットも死について話していた。マホメットが死にかかっていたとき、側にいた娘のファティマが尋ねた。『お父さん、もう死ぬのですか。死んだらどこに行くのですか。そうしたら私たちはどうなるのですか。』マホメットは答えた。『私の財産から何でも求めるがよい。しかしアラーの裁きから救うことは私にはできない。』さらに、『私はアラーの使徒であるが、アラーが私に対してどうなされるかは私には分からない。』

「同じとき、私はクリスチャンと議論することにとても興味を持っていた。そしてある牧師から聖書をもらった。私は聖書を好んで読んでいた。聖書の中から、クリスチャンに対して突きつける点が見つかると思っていたからだ。しかし読んでいると、イエスが『私は父のみもとに行く』という箇所を目にした。さらに、『あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたを迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている。』

「私は祖父の元に走っていった。『おじいさん、イエスを見てみてください。彼は自分の父の元に行き、弟子たちのために場所を用意し、また戻ってくるといいました。でも、マホメットはどこに行くか分かっていないです。おじいさんならどっちに従いますか。』祖父は言った、「どこに行くか分かっているほう。』そこで私は『じゃあ僕は教会に行く」と言って、そうして私は主と出会った。」

 

2番目の話はアキアナについてです。ご両親は旧ソ連のリトアニアからアメリカに移民しました。神さまのことを全然口にしない無神論者で、テレビも見ない、アキアナを幼稚園に行かさない家族でした。しかし、4歳の時から、アキアナはお母さんに度々天国で見た多くのことを話し始めました。イエスさまが、「清いし、とても強くて、大きい…目はすごく美しい」と言っていました。他の人に影響されて、アキアナがこのようなことを言っていることは不可能と、お母さんは分かっていました。娘を通してイエスさまと知り合ったお母さんは、「神さまが一人一人の子どもをどこの家族に入れるか考えていると思う」と感謝しています。         

 

6歳の時から、アキアナは天国で見たことを描き始めました。驚くほど美しく!それは、3番目の話につながります。4歳のコル君の話です。よく聞いてください。            G.F

 


2012年11月19日 

 

考えも及ばないことや、思いにも浮かばないこと、常識というメガネをかけては見ていたらとてもじゃないけどついて行けないようなこと、言いかえれば非常識。聖書はそんな出来事でいっぱいです。常識と言ってもこの世界の人間の思いの常識であって、決して私たちの思いをはるかに超える神さまの御心はそうではないのですが。

 いろんな奇跡例えば、水がぶどう酒にかわったり、五つのパンと2匹の魚で、5000人以上の人のお腹が満たされたり、死人がよみがえったりはもちろんですが、イエスさまに、声をかけられて、ペテロや取税人レビは何もかも捨てて従っていきました。今の私たち、この世界の基準で見たらある意味では、常識外ではないでしょうか。何もかも捨てるって。

 別に彼らは特別な才能を持った人たちではなかったし、優秀なものでもなかったのです。どちらかと言えば、平凡な人たちだったし、レビに至ってはみんなから嫌われ蔑まれ罪人扱いされているようなごく下っ端の取税人でした。そんな中で普通に毎日の日々を送っていたのです。しかし、イエスさまはそのようなものに目を向けて、弟子としての召しを与えて下さるお方なのです。イエスさまの人を見られる基準、判断は決して外面的なものつまり身分職業や出自、ルックスなどではないのです。

 

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。  

                                       Ⅰコリント1:26~28

 

私たちにとって、とても励ましであり感謝ではないでしょうか。

レビが何もかも捨てて、立ち上がってイエスさまに従ったあと、自分の家で大勢の取税人や罪びとたちを招いてイエスさまと共に食事をしました。多くの人がイエスさまとともにいてイエスさまにふれたのです。そのあとその人たちはどうなったのでしょうか。気になります。しかし、イエスさまと出会って、何もかも捨てて従っていったペテロや取税人のレビは弟子となったのです。人生が変えられたのです。何もかも捨てるってどういうことなのでしょうか。決して持ち物全部をどこかに捨て去ったわけではないでしょう。いっしょに考えてみましょう。

                                              M.H

 


2012年11月17日 
先週の水曜日(日本時間)、世界でもっとも重要な役所と言っても過言ではない、アメリカ合衆国大統領の選挙結果が発表されました。
ご存知の通り、現職で民主党のバラク・オバマ氏が、共和党のミット・ロムニー氏を破り再選を果たしました。アメリカ国民は、
次の四年間を再びオバマ氏の手に委ねたのです。
日本にも選挙はあります。今年中か来年早々にも総選挙があるかも知れません。しかしアメリカ大統領選ほどの緊迫感や期待感は
ないでしょう。アメリカでは、支持している候補者を「彼ならやってくれる」、「アメリカを新しい未来に導いてくれる」などと
期待を持って国民が投票していました。しかし日本では、
民主党か自民党かマシなほう選ぼうというのが大半の有権者の本音でしょう。
日本の政治の嘆かわしい現状を悶々と語ろうと思えば時間が足りません。日本には「この人なら日本を変えてくれる」、
「この人ならついていける」と思える人がいません。「弱腰外交」、「決められない政治」などの決まり文句がいつもニュースで
出てきます。ここ最近、坂本竜馬などの幕末の士がまた人気を集めているのもそのためだと言われています。
こういう時代にあって、私たちクリスチャンが社会のリーダーとなっていくチャンスではないでしょうか。それぞれの職場で、
学校で、地域で人々を正しい方向に導こうとそれぞれが努力するば、少しずつ社会が変わっていくはずです。私たちには
素晴らしい模範がいます。命の道を示してくださり、万民のためにもっとも苦しい道を自ら歩まれたイエス様。リーダーが
必要とされている世の中で、彼のように人を思いやり、真実を語り、清く正しく生きる人が周りにいれば、自然と人が集まって
くるのではないでしょうか。
「リーダーがいない」、「政治がダメ」と嘆き続ける皆さん。自分がリーダーになる、若しくは次世代がリーダーとなれるよう
育てるというビジョンをもって、この日本を変えていこうではありませんか。まず自分の周りから始めましょう。    
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、避難されるところのない純真な者となり、
また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として
輝くためです。                                  ピリピ2章14-16節

                                              K.F


2012年11月4日 

 

イエスさまは言われました。

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものだからです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることは出来ません。」人々が子どもをイエスさまのところに祈ってもらうために祝福してもらうためにつれて来ようとしているのを見て、弟子たちがその人たちをしかったときに語られたお言葉です。

イエスさまは、子どもたちを愛しています。祝福したいと思っておられたのです。そして、今もそれは変わりありません。今も多くの子どもたちは、暗闇の世界の束縛の中で苦しんでいます。闇の世界の力が子どもたちを、イエスさまのところに来させないようにと必死に働き子どもたちを止めているのです。子どもたちの祝福を祈りましょう。子どもたちをイエスさまのところへ連れて行くのです。それを止めようとしている力を打ち砕いて、子どもたちが自由にイエスさまのところに来て主の働きに用いられるように、私たちは心を一つにして祈っていかなければならないのではないでしょうか。

 

イザヤ書の中に、私を研ぎすました矢として、矢筒の中に私を隠したとあります。

今、矢筒の中にあるとぎすまされた矢とは、どんな矢のことでしょうか。それは、生まれる前から召しをあたえられ、母の胎内にいるときから名を呼ばれ、将来、諸国の民の光となって、地の果てにまで主の救いをもたらすものなのです。研ぎすまされた矢として、神さまのみこころの中心をしっかりと射抜く、そんな、子どもたち(私たちもですが)となりたいですね。

少年イエスさまは、イエスさまを探す両親に対して、宣言のようにこう言われました。「私が必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」イエスさまは、自分がどこにいるものなのか、そして何者であるのかを宣言されたのです。私たちはどこにいるものなのでしょうか、そして主にあって何者なのでしょうか。私たちが知るべきとても大切なことのひとつではないでしょうか。

少年は2匹の魚と5つのパンを差し出しました。喜んでか、仕方なくなのか、自ら進んでなのか、人(アンデレ)に促がされてかはわかりませんが、とにかく自分のもっている小さいけれどもすべてをイエスさまの前に差し出したのです。その結果は、5000人以上もの人たちのお腹を満たしました。イエスさまが差し出された小さいものでもすべてであった、それを祝福してくださったのです。私たちが知るべきとても大切なことのひとつではないでしょうか。

子どものロバは、「主がご入り用です。」の一言で解放され、主の栄光を運びました。主がご入り用なのです。私たちが知るべきとても大切なことのひとつではないでしょうか。

これらのことを知って、そこに焦点を当てて、そのように歩むとき私たちは研ぎすまされた矢となって主のみ心の的を射抜くことが出来るのではないでしょうか。                       M.H