2012年, 12月のブログ

2012年12月30日 

 

2012年も、いよいよあと二日、今日が今年最後の主日礼拝です。みなさんどのような一年だったでしょうか。一年間共に集ってひとつ心で、主の前に出て主を礼拝できたことは、この上のない感謝ではないでしょうか。主がいっぱいの祝福を私たち家族の上に注いでくださったのではないでしょうか。                                       

 

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。

それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。  詩編133:1~3

 

 それぞれにいろんな問題があったり、苦しみや患難また、喜びなど喜怒哀楽それぞれの一年だったと思いますが私たちは家族として、いっしょに礼拝するものとして、主によって召しだされたジーザス・ファミリーとして、今日もここでともに主を賛美し、心からの礼拝をささげましょう。 

                                              

さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。    聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。

天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。 詩編134:1~3

 

そして今日も、主から励ましを受け、たがいに励まし合えることはなんという幸いでしょうか。あまりにもそのことが普通になりすぎて、いつしか感謝の心を忘れてはいませんか。今日心からの感謝を主に捧げましょう。そして共に集っている、愛する家族にも。

 

この一年皆さんは幸福で幸せだったでしょうか。主は私たちを祝福される方です。私たちはその祝福を満たす器です。そんな器である私たちは主を恐れ、主の道を歩むものです。言い換えれば主のみ前で敬虔に生きるものでありたいのです。そして私たちが準備したその敬虔の器の数だけ主は祝福を満たしてくださるのです。そしてその数だけ私たちの感謝があふれるのです。

 

幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。

あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。

あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。

見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

主はシオンからあなたを祝福される。あなたは、いのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。

あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。  詩編128:1  M.H

 


2012年12月16日 

 

 今年も余すところあと半月となりました。

皆さんにとって1年どんな1年だったでしょうか。

来週はいよいよ、クリスマスセレブレーションです。暗闇の中にいる、愛する私たちの家族や、友人たちの上に光が照ってひとりでも多くの人々が、主にある喜びにあふれ、永遠の命にあずかれるようにと祈りと願いもって人をさそいましょう。

毎年この時期になると、あわただしい日々が続いてバタバタと余裕もなくなってしまいますが、このようなときにこそ主の御前でゆっくりと時間をとって思い巡らすときをとりたいものです。

私たちは、大変な問題が起こったり、感情の起伏によっていらいらしたり、落ち込んだりしてしまうと、ついゆっくりと思い巡らしたり、考えたりすることをおろそかにしてしまうのではないでしょうか。自分の思い込みで重大な決断を下してしまったり、怒りや喜びといった感情に流されてよく考えもせずに答えを出してしまったりしてしまうことはありませんか。ヨセフが自分の婚約者が妊娠したと知ったときどんな思いだったでしょう。その出来事がもし自分の身に起こったらと考えたらある意味で容易に想像できると思います。婚約者が妊娠してしまった。自分には何の覚えもない。しかも聖霊によってなどといっている。カーッ、くっそー、わけわからん。腹が立つやら、悲しいやらでもうどうにでもなれ状態ではないでしょうか。ゆっくり考えたり思い巡らしたりしないで感情で処理してしまって、後から後悔したりするのが関の山です。しかしヨセフはそんな中で冷静にいろんなことを考え判断しさらに思い巡らしたとあります。そしてそんな中で主からの語りかけを聞いたのです。私たちも日々の生活の中でどうにでもなれ状態になってしまいたいようなことがあるのではないでしょうか。夫婦関係や親子関係のなかで、職場の中で、そんな時どうするのでしょうか。そんなときこそ私たちは思い巡らすということをしなければならないのではないでしょうか。最近そんな時間をとることの必要を強く感じています。どんなことであっても思いつきや惰性でやり過ごしたくはないのです。時にはひらめきや感情も必要でしょうが、そうであっても思い巡らすことは重要です。ヨセフはそんな中で神からの語りかけを聞いたのです。そしてそれに素直に応答し従いました。私たちもそのようにありたいものです。

今日は、もう一人の当事者、主イエスさまを胎内に宿し、彼を抱き、あらゆる誤解や患難にたえ、理想的な女性の典型ともいえるマリヤについていっしょに考えてみましょう。

                                               M.H

 


2012年12月9日 

クリスマスが近づいてきました。神さまは愛するひとり子を私たちに無条件で与えて下さいました。その愛を今しっかりと受け止めようではありませんか。そしてその愛に応答して私たちも神さまのハートで生きるものとなりたいものです。

マケドニヤの教会の信徒たちは、極度の貧しさの中にありながらもすすんで捧げました。ある貧しいやもめは、その生活費のすべてであるレプタ銅貨ふたつを献金箱に投げ入れました。喜びと神さまへの愛と信頼に満ち溢れていたのです。

西インドの教会で伝道資金を募ることになり、三つの条件のすべてを満たしながら献金することになりました。第1、各自は必ず、いくらかずつ捧げる事。第2、各自は力に応じて捧げる事。第3、各自は喜んで捧げる事。さっそくひとりの裕福な商人が進み出て銀貨を一枚皿の上に置きました。すると会計係がそれを見て、「これは第1の条件は満たしていますが、第2の条件を満たしているとは思えないので受け取れません」と言うとその銀貨を商人の手に返しました。金持ちは顔をふくらませながら、今度は銀貨の代わりに金貨をひとつ出すと皿の上に置きました。それを見て会計係りが言いました。「これは第2の条件にかなっていますが第3の条件にはかなっていませんので受け取れません。」そして、金貨を彼の手に返しました。すると金持ちは自分の間違いを反省して今度は顔を和らげ、にこにこしながらもう1度前の金貨を皿の上に置きました。すると会計係は喜んでその捧げものを受け取りました。

さて私たちが、毎週捧げている献金はいかがでしょうか。そのときの私たちの心の態度はどうでしょうか。
イエスさまは、お金のことや財産の扱い方について、多くの事を教えられました。物質的なものを神さまのようにしてはならないと教えられたし、また、物質的なものの必要について心配してはいけない、神さまにもっと信頼しなさいと教えられました。そしてただで与えなさい。自分のために蓄えてはいけないとも教えられたのです。
今日は与えることについていっしょに考えてみましょう。与えることは、神さまへのまた他の人への私たちの愛を表現する具体的な方法なのです。   M.H


2012年12月8日 

 

早いもので、もう12月。私たちジーザス・ファミリーにとって、この一年は大きな変化の年でしたが、皆さんおひとりおひとりにとって、どんな一年だったでしょうか。

 クリスマスシーズンを迎えあわただしくなってまいりました。

私たちの心が2000年前のベツレヘムの騒がしく忙しい宿屋のようになってしまわないように・・・。どんなときにも、主の御前に、静まり祈ることを、なおざりにしたくはないものです。

 

 さて、今年もアガペ会の更新の時期がやってきました。

 「アガペ会ってなんだったっけ・・?」  「なんか申込書があって名前書いて出しておくあれやん。」

 ちょっと待ってください。確かに名前を書いて毎年出してもらっていました。そしてそれは、とても大切なものでした。私たちジーザス・ファミリーは、教会員とか教会籍というシステムをある意味でもっていません。私たちは家族です。家族として私たちは、愛し合い、赦し合い、受け入れ合って共に心を合わせて主に仕えているものなのです。だから、何かの規則によって、また資格によってひとつの集まりとなるのではなく、愛によって結ばれた家族として、共存共生しているそんな集まりです。

 そういいながらも私たちは毎年アガペ会を更新するシステムを取っていました。ある方は、このシステムは、いいねといわれました。教会員となったら、そこに、ずーと縛られて、他の働きに主の導きを感じていてもどうすることも出来ないという、そんなこともなく、また、自分の賜物が生かせなかったり、性格に合わなかったり、人間関係につまずいてしまっても、そんな苦痛と葛藤の中で忍耐を持って教会生活を送るようなこともなく、自由に好きなように出来ていいね。と。確かにそうですが、だから、自由に好きなことが好き勝手に出来るための一年の更新だったのでしょうか?また、ある人は、これはとても厳しくシビアなものですね。毎年自分の強い献身の意思がなければ、更新できないですもの。と。確かにそうです。だからといってそれは、1年ごとの私たちの血判状のようなものだったのでしょうか。

 私たちジーザス・ファミリーは、自由な教会です。しかし、なんでもありではないのです。私たちジーザス・ファミリーは強固の集まりです。しかし、規則で結ばれたものではなく、愛によって結ばれているのです。家族であるということ、そこからずれることなく、形式だけのものではなく、また人を縛るためのものでもなく、より今のジーザス・ファミリーに則した形へと、今年から、少しそのシステムを改めたいと思っています。

 今日ジーザス・ファミリーについて、アガペ会についていっしょに、考えてみましょう。アガペ会への申し込みは、資格テストではなく、また、人を縛るためにあるのではなく、自身の祝福のためでありまた、たがいの祝福のためです。

互いが神さまから与えられた賜物を十分に発揮できるように、神さまからの召命をベストを尽くして果たせるように、助け合い、励ましあい、守りあいながら成長するためなのです。そして、ジーザス・ファミリーに与えられた神さまからのビジョンを実現するために、私たちは、今このときここに集められているのです。いっしょに前進しましょう!!                               M.H