2013年, 1月のブログ

2013年1月26日 

 

 「おかしいな、あの人は、そのように信じて、祈りを聞かれた。私もそのように信じたのに神さまは少しも聞いて下さらない。あの人はあのように神さまの前に出て神さまから恵みを受けているのに何で神さまは私が同じようにやっても、私には恵みを賜らないんだろう。」

私たちもこのような思いになったことがあるのではないでしょうか。このように思った人は、また思った時に、私たちはいったい何を信じていたのでしょうか。この人が信じているものは、言ってみれば何かひとつのもの、方法または道とでもいえるのではないでしょうか。私たちは、ただ一通りの方法を学んでそれをよく知っていますが、本当に大切なものを得てはいなかったり、得ようとしていないのではないでしょうか。

 イエスさまは言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

神さまが私たちに与えられる道はキリストです。神さまが私たちに与えられる真理もまたキリストです。神さまが私たちに与える命もまたキリストなのです。神さまが私たちに与えて下さるのはキリストご自身なのです。それなのに私たちは多くの場合、霊的な事柄の上において見ているものは、ただその事柄であったり、私たちが触れるものはただその一つのものになってはいませんか。そこにキリストを見ていなかったら、その事柄、ただその一つのものは、私たちに何も霊的な益とはならないのです。

私たちは、神さまが私たちの目を開いて下さり神の御子キリストをはっきりと認識させて下さるように求めなければならないのです。キリスト教の特徴、あらゆる源、あらゆる深みや豊かさはすべて、神の御子を認識することにあるのです。何かの一つの方法や教理を知っていることや、自分自身の力量(頑張り)にあるのではなく神の御子イエスさまを認識すれば、そこに道があり真理があり命があるのです。神さまが私たちに与えて下さったのは、神の御子イエス・キリストであって、その他のどんな物でもないのです。私が道であり、真理であり命なのですとは、どのようなことか今日いっしょに考えてみましょう。

                               M.H

 


2013年1月20日 

キリストの一番弟子と呼ばれたペテロ。イエスが地上におられた間もさまざまな試練を受けました。イエスのことを大胆に「生ける神の子」と宣言して賞賛され、また別の時には「下がれサタン」と厳しく叱責されました。荒海の中で舟から踏み出して水の上を歩き、すぐにまた恐れを感じて沈みそうになりました。他の弟子たちが与かれなかった恩恵も受けました。ヤイロの娘が蘇ったときも、山の上でエリヤとモーセが現れたときも、そこにペテロはいました。そしてイエスが逮捕された後、彼は最大の試練で失敗してしまいます。イエスの弟子であることを否定してしまいます。復活後、イエスに再び諭され、昇天後は使徒のリーダー的存在として活躍します。こんな波乱万丈、悲喜こもごもな3年余りを経て、イエスは彼を初代教会のリーダーとして育てていかれたのです。

 

しかしイエスが彼に施された「使徒訓練プログラム」はまだ終わっていませんでした。彼が任された教会が、本当にイエスご自身が与えられた使命を果たすために、もう一つの試練が待っていました。祈るために屋上に上ったペテロは、幻を見ます。多くの動物が天から吊るされ、それらを屠って食べるように言われます。それらの動物は、ユダヤ人の慣習で食べないのは勿論、モーセの律法にも食べないようにと書かれていたものもあったでしょう。しかし主の答えは・・・。

 

私たちもさまざまな試練を通ってきました。成功も失敗も経験してきました。嵐の中で沈みそうになったり、黙るべきときに不必要なことを言ってしまったり、ある時には主の大いなる祝福を見、あたある時は私たちの無力さを思い知らされました。そのような軌跡を辿り、今のジーザスファミリーがあり、私たち一人一人の信仰があります。

 

今、私たちの前に、もう一つの試練が設けられています。「私が聖めたものを聖くないと言ってはならない」。今までの固定観念や、過去のやり方、文化的、社会的、歴史的な「常識」に縛られず、一般的に「汚れている」と思われているものにも手を伸ばし、主の語りかけに答えていく時です。私たちにとっての「汚れた動物」とは何でしょうか。日本中の教会がその問いに向き合って行動を起こせば、リバイバルの時も近いでしょう。

 

「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」

               Iコリント2:12        K.F

 


2013年1月13日 

使徒パウロは、自身が捕えられ、鞭打たれ、牢獄の中に入れられているときにも、神に祈りつつ賛美の歌を歌っていました。しかも真夜中に。きっと、心の中は満ち足りていたのでしょう。窮乏の中にあっても、四方八方から苦しめられていても、迫害の中であってもいつも心は満ち足りていたようです。「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」と言っています。また、いつも喜んでいなさい。あらゆることに感謝しなさいとも奨めています。

私たちは、いかがなものでしょうか。少し寒ければ、寒いといって、食べ物がおいしくなければ、まずいと不満を漏らし、何か自分の思うようにいかなければ不平の口を開き、なかなか満ち足りた思いではいられないのではないでしょうか。(もちろん、満ち足りて感謝してるけど、そのように口にしたり態度に出てしまうこともあるかもわかりませんが、それならば、いらんことを言わずに感謝を口にしたいですね。)満ち足りるとは、十分に満足することです。つまり、満足は望みが達せられて不平がないということです。不満や不平を抱いて生きるよりいつも満ち足りて心豊かに生きるそんな生き方をしたいものです。

どんな境遇の中でも満ち足りることを学んだとパウロは言っています。どんな境遇でも満ち足りていられると言うことは、私たちが満ち足りるか、不平不満でいるかは、状況によって決ま

                                    るものではないということではないでしょうか。どんな境遇でも満ち足りていられるのですから、つまり、それは、私たちの心の態度によって左右されるものだということが言えるでしょう。それなのに、私たちは自分がとても、満ち足りてないのは、このような環境の中にいるから、このような状況だからだと思ってしまって、すべてが今の自分の境遇のせいでこうなったんだと、不平や不満を持ってしまってはいませんか。

どうすれば、そのような態度から解放されるのでしょうか。いっしょに考えてみましょう。パウロはあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。と言っています。私は、私を強くしてくださる方によってどんな事でもできるのです。とパウロは言いました。どういうことでしょうか。いっしょに、考えてみましょう。そして、私たちも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得たいものですね。                          

                               M.H

 

 


2013年1月6日 

 

夢に生きる

 

明けましておめでとうございます。

皆さん、新しい年にどのような抱負と夢を抱いておられるでしょうか。今年も心を合わせて、主に期待し、信頼し、前進して行きましょう。主の私たちに対する期待と夢が成就するその時まで。

 

「一富士二鷹三茄子」縁起がいいとされる初夢です。私たちクリスチャンにとっては、関係のない話どころか、そんな、縁担ぎのようなことは忌み嫌うべきことですが、主が夢で語って下さり、その進むべき方向を示してくださることも聖書の中には語られています。そしてまた、私たちにも、主が夢を通して語って下さることもあるでしょう。皆さんにこの新しい年、主は何を語ってくださったでしょうか、また語って下さるのでしょうか。

主が見せて下さり、語ってくださった夢や幻に、導かれて人生を歩みたいものです。皆さんの人生は何によって導かれているのでしょうか。主からの夢や幻によって導かれているでしょうか。それとも・・・。人間的な欲望や、楽しみ、また恐れや妬みそんなものが自分の人生の歩みを支配し導いてしまってはいませんか。

ヨセフが兄たちに対する怒りや憎しみに自分の人生を任せていたらどのような結果になったのでしょうか。ヨセフは夢を見て歩みました。アナニヤが幻よりも恐れの中で人生を歩んでいたら、パウロはどうなったのでしょうか。あなたが、夢や幻よりも自身の欲望や楽しみ、怒りや妬みで人生を歩んだらどうなるのでしょうか。

新しい年の始めに主の前で、自分が見た夢、幻を思いめぐらしてみてはいかがでしょうか。

私たちは自分が見た夢、幻を誰かに語るときには注意が必要なことも覚えなければなりません。ヨセフは、ある意味では少し下手に語ってしまって、兄たちの怒りを買ってしまいました。夢が潰えてしまったように感じたかもしれません。私たちだったら、そこで確信を投げ捨ててしまうことだってあるのではないでしょうか。夢、幻は、簡単に壊れるし、壊してしまえるのです。 

また、本当に主からの夢、幻であることの確信を持つことも大切なことです。自分の欲望や願望が夢にならないように主からの夢、幻をしっかり握って今年も歩んでいきましょう。                           M.H

 

糧を栄養に!

 

*あなたの夢を思いめぐらしてみましょう。

*その夢が主の夢、幻である確信はありますか。

*あなたは、その夢をどのように誰に語りますか。いっ 

  しょにその夢のために祈ってくれる人はいますか。

*自分の生きがいが、自分の夢や野心となっては

  いませんか。

 


2013年1月4日 

 

明けましておめでとうございます。

永遠に変わることのない主の愛と、御約束の中、ともに集い全能なる神さまを礼拝できる、特権を心からお喜び申し上げます。

今年も、主にあって愛し合う家族として、主を愛し、主に仕えてまいりましょう。

神さまの豊かな祝福の中で新年を迎えられることはなんと幸いなことでしょう。

今年もよろしくお願いします。

 

 ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。

 その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。

 繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。

 主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。

 しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行なう人は。

 彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。

 その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるがない。

 その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。

 彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。

 悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。 

                                             詩編112

 

 新しい年、だれもがその年の幸を祈ります。多くの人は何が幸いかを考えて祈り求めるのですが。自分自身が幸いを受けるにふさわしいかどうかについてはあまり考えないのではないでしょうか。年の始めにこの詩編から少し考えてみてはいかがでしょうか。                                              M・H