2013年, 3月のブログ

2013年3月31日 

サヨナラ満塁ホームラン

 

9回の裏ツーアウト10対0もう逆転は不可能でしょうか?アディショナルタイムに入って3点差もう敗北は決定的?ガン細胞が全身をおおい医者もお手上げの末期がん、来年までの生存は…?明日までに1000万円なければ会社はつぶれる…息絶えて3日、墓には大きな石のふたが…大逆転!!

 

もう希望がなくなった時、夢がついえてしまった時、生きる意味を見失いただ無気力とむなしさが自分を支配してしまった時、自分に絶望している時…大逆転!!

 

 イエスキリストは、私達の罪のために十字架についてくださり、ご自身のいのちをささげてくださいました。その時、それまでイエスの教えに励まされすべてを捨ててイエスに望みをおいて従ってきた人達は、十字架の上に『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれ、完了したと言って息を引きとられたイエスを見て、埋葬のために亜麻布に包まれ油を塗られ、暗い墓の中に納められたイエスを見て何を感じ何を思ったのでしょうか?それは彼らにとって希望が夢が死とつながれた日だったのではないでしょうか?

 それから3日後、女たちが墓に行ってみるとそこは空っぽでした。イエスキリストは決して死とつながれたままではなかったのです。大逆転!!…これ以上の勝利があるでしょうか。イースター、それは、そんな大勝利なのです。しかもそれはイエスキリストの大勝利というだけにとどまらずイエスを信じる私たちにも与えられている大逆転勝利なのです。みなさんの今の人生にそのような問題があったとしてもイエスキリストにある大勝利は私たちひとりひとりの問題の中で大逆転勝利に導き私たちの人生を全く新しいものへと変えてくださるのです。今日そんな大逆転を私達も受け取り経験しましょう。      M.H

 


2013年3月24日 

上手に戦いましょう

 

 数年前のモザンビークの話です。私達が毎週奉仕のために訪問していたブーズ島をある日強烈な嵐が襲って、多くの家が崩れました。浸食によって少しずつ削られていた島が、かなりのダメージを受けたのです。次の日僕らが島を訪れましたが、陰気な雰囲気でした。みんなはもう島はだめだと感じていました。アンゴシェの市役所の方も僕に声をかけて、できるだけブーズの人たちが大陸に移るように説得してくださいと頼みに来たのです。

 でも、みんなが集まって、話し合いました。あきらめるのではなく、まず数か月祈ってみましょう。毎日島を回って、祈って、主が奇跡をなしてくださるように。と。9月でしたので、砂を激しく飛ばす季節風が吹き始めていましたが、年末までに祈って、奇跡がなかったら、移る準備をするように、と決めました。とりあえず、まず思い切って祈ること!

 そして、島を回って祝福を祈り始めたら、北風が突然止みました。それから2,3年吹かなかったのです。さらに主を求めた結果、浸食が始まったのは、ちょうどある魔術の儀式をやった頃だった、とある人は思い出しました。それで、いっしょに悔い改める祈りを計画して、断食をしてから、魔術が行われた場所に行って、聖餐式を行って、礼拝しました。

 しかし、その日、以前島に住んでいた魔術師が戻ってきました。私達は、「あっ、あいつが今日迷惑をかけにきた!」と思いましたが、反対に、彼はいっしょに祈りに加わり、ともに悔い改める祈りをしてから、ほかの似たような儀式を行った場所に僕らを案内して、「ここでも祈りましょうよ」と言ってくれました。帰りのボートの中で、彼は福音を説明してもらって、大陸に着いてから浜辺で膝をかがめてイエスさまを自分の救い主として受け入れました。そして、少しずつ、砂が島の反対側に不思議に集まって、人々が浸食によって縮まったほうから成長しているほうに家を移ったのです。

 モスクのリーダーが福音に敵対していました。でも、その頃、彼が切り倒したヤシの木が、モスクに当たって、モスクをペチャンコにしました。次に、あまり強くない嵐が彼の家だけをつぶしたのです。島で一番しっかりしている家だったのに。でも、僕らは決して彼を呪いながら祈っていたわけでもなく、互いのことを敵だと、どちらも思っていませんでした。それをはっきりさせるために、彼の家族のために僕らが新しい家を作るのを手伝いました。今でも彼はまだ心を開いていませんが、仲よくしています。

 ブーズ島の寿命が延長されました。そして僕らは続けてみことばと御霊を弟子たちに注ぎました。でも3年後、北風が再び吹き始めた時、ブーズの人たちみんなはもう時だと感じて、彼らは福音を携え持って、ブーズを後にし大陸や他の島に移って行きました。

 この話を通して何を言おうとしているのでしょうか。人生の出来事の裏に物理的な要素もありますー浸食、嵐、反対する人間や木が倒れることなどです。ーしかし、目で見えない世界の中でも僕たちを左右している要素もあります。祈り、断食、信仰、以前の魔術のようなことがあります。私たちの格闘は血肉に対するものではなく…霊の世界にいるもろもろの悪霊に対するものです。とエペソ6.12にあります。また、私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前で要塞をも破るほどに力があるものです(Ⅱコリント10.3-4)。

 私たちを打倒そうとしている敵はありますが、それは姑や上司ではありません。本当の敵を見分けて、私たちの武器の使い方を学びながら、もっと上手に戦いましょう。     G・F

 


2013年3月17日 

算数が苦手??

 

 ある夜、狼藉者が、デパートに押し入りました。その狼藉者は何も盗み出しはしなかったのですが、商品の値札を全部付け替えてしまいました。翌朝、やってきた店員がそれを発見しました。それは、ダイヤのネックレスに1ドルの値札がつけられていて、安物のおもちゃのような模造宝石のイヤリングに数千ドルという値札がついているというような奇妙な光景でした。もちろんデパートに買い物に来た人たちが大喜びをしたことは言うまでもありません。

 キルケゴールが語ったたとえ話です。そして、福音もそのようなものだと言っています。私たちが当たり前だと思っている価値観を福音はすべてその根底からひっくり返してしまう。と。

福音書の中のイエスさまを見ていくと、イエスさまって算数が苦手だったのかなと思われるような記事が出てきます。

 夕方にやってきて少ししか働いていない労務者と、朝早くから一日中働いた労務者の受け取る日当がどちらも同じ金額??

 99匹の羊を危険がいっぱいの野に、ほったらかしにして、群れを離れて迷い出てしまった一匹を探しに出かける羊飼い。時間に比例しない給金??99をほっておいても大切な1?? など、など。

 このような、たとえ話を通してイエスさまは、私たちに何を語ってくださっているのでしょうか。ただ単にイエスさまは算数が苦手だったのでしょうか。決してそうではないはずです。どうも、私たちの価値観と神さまの価値観とは、異なるようです。

 恵みとは、受ける価値のないものに天から一方的与えられるものです。そして、私たちはそんな恵みによって救われたものなのです。私たちの考えや思いをはるかに超える神さまの価値観によって私たちに恵みが与えられたのです。それなのに、いつの間にか私たちはその恵を忘れて、この世の価値観にとらわれて日々の生活を送ってしまってはいませんか。

 なんで、あとから、いい加減に?働いた者と、一生懸命みっちりと働いた者が、同じ給料なのと日常の生活の中で考えてしまうことはありませんか。あの人ずるいやん。私の方が一生懸命頑張ったのに。って。時々、いや、よくあるんですよね。

 枠からはみ出して、危険にさらされている人に目を閉じてしまって、仕方がない、他にやることがあるからと理由をつけて、あきらめてはいませんか。神さまが、もしそのようなお方で、99匹を守らなければと、あきらめておられたら、私は、どうなっていたんだろうって、考えてしまいます。

 自分の方が、人よりたくさんの金額を献金をしていると、そのことで安心を得ていたり、そのことを誇ってしまってはいませんか。

 思い切って、すべてを注ぎだしている人を見たら、なんて無駄なことをと批判してしまってはいませんか。

今日いっしょに、イエスさまの価値観について考えてみましょう。そして恵みの大きさを知り、それを受け取り、その中に生きるものと変えられようではありませんか。

                               M.H

 


2013年3月10日 

失うときには、失うのだ

 

 東日本大震災から2年が過ぎようとしています。多くの被災された方々が、今もなお仮設住宅で不自由な暮らしを強いられているニュースや、故郷に戻るのには、何十年かかると言われている原発事故近くの人々の話題を耳にすると心が痛みます。私たちは、この未曾有の出来事を風化させてはいけないし、ただ単に悲劇として終わらせてはいけないのではないでしょうか。その中に、神さまの摂理があり、その中でも神さまのベストがなされているのです。ただ悲観的に物事を見て落ち込むのではなく、私たちの信仰を高める糧としたいものです。そして、被災者の救いのために祈り続けていきましょう。

 

 年老いたヤコブが嘆いています。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

 飢饉のときに、エジプトに穀物を買いに行って帰ってきた子供たちの報告を聞いてのことです。スパイの嫌疑をかけられ、自分たちが助かりたいなら今度は、もう一人のヤコブがかわいがっている末弟のベニヤミンを連れて来いと言われたのです。ベニヤミンをエジプトに送ったら無事で帰ってくるという保証はありません。でもいかなければ自分たちは飢え死にしてしまいます。ヤコブは大いに苦しみました。

 ヤコブの生涯はどのような生涯だったでしょう。少し見てみましょう。子ども時代は、家庭に問題がありました。そして、故郷を追放され、2度と自分を愛してくれた母に会うこともなく、叔父の家で21年間も労働を強いられ、紆余曲折その娘と結婚したが逃げるようにそこを出ていき、老年になっては子どもたちに欺かれて、最愛の子ヨセフを失くし、他の子どもたちに対してはぬぐい難い不信を抱き、そして今の状況は、もうひとりの愛する子ベニヤミンをも失おうとしているのです。そのような状況を考えたら、同情したくなりませんか。そして、私たちもまた問題の大小、状況は違えども、何度も、ヤコブのように、こんなことがみな私にふりかかって来るのだ。という思いになっているのではないでしょうか。何か自分の身にふりかかってくる不幸な出来事、自分ではどうすることもできないような状況の中で、そして往々にしてそんな状況や環境の中では、最悪の結果を勝手に想像して、悲観的な思いになって嘆いているようなことはありませんか。でも大丈夫です。神の人ヤコブも決して完全ではなかったのです。日々不安や怖れを感じて波乱万丈な人生を歩んだのです。私たちと同じように嘆いています。神さまはそんなヤコブに、子孫はちりのように多くなり地上のすべての民族はその子孫によって祝福されると語られたのです。励まされます。

 さて、この嘆きの中でヤコブの解決はどうしたのでしょうか。全能の神が、その方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」あきらめたのでしょうか、投げやりになったのでしょうか決してそうではありません。そしてその結末はどうなったのでしょうか。いっしょに考えてみましょう。

                     M.H

 


2013年3月3日 

喜んでいなさい

  

いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 

 この聖書の箇所は、私たちが今年、目標聖句というか、御言葉を生きるものとして、目指すところして掲げている箇所です。

 皆さん、いかがでしょうか。いつも喜んでいること、たえず祈ること、すべてのことに感謝することは、とても難しいし、ただ、こうしようと言ってできるものではありません。また、無理して、そのように装っていても、それは決して神さまの御心とは言えないし、そんな行為は自分をむなしくするだけです。

 それでは、どうすればいいのでしょうか。私たちが、そのように生きることは、無理なことなのでしょうか、決して、そんなはずはないとは思いませんか、神さまは私たちに、そのようでありなさいと語ってくださっているのですから。私たちにできないことを神さまがさせようとしているのでしょうか。そんなことはありません。神さまは私たちに、それを行う力をも備えて下さっているお方なのです。聖霊さまが私たちの心の中に今日も愛を注ぎ込んで下さっています。その聖霊さまに満たされて、生きるとき私たちは自由にされ、何でもできるのです。今日も私たちは聖霊さまに満たされ続けようではありませんか。私たちの助け主として、御霊が私たちのところに来てくださっているのですから、その御霊に頼って生きていきましょう。

 さて、いつも喜んでいなさいと語られていますが喜ぶとはどういうことでしょうか、皆さんは、何に喜びを感じられるのでしょうか。どのようなことを喜ぶのでしょうか。昨日の結婚式はとても素晴らしい喜びの時でした。結婚されたお二人もまた、その親族の方も、そして、そこにいたみんなも喜んでいました。それも、ひとつの喜びでしょう。喜びは人によって様々です。では、いつも喜んでいなさいと語ったパウロはどうだったでしょう、どのようなことを喜びとしていたのでしょうか。

 

すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。

                      ピリピ章1章18節

 

 パウロは、どのような形であれ、福音が述べ伝えられていることを喜んでいるといっています。そして、今からも喜ぶと言っています。

 神さまに捕えられた、使徒パウロの心は、福音が述べ伝えられているということを喜んでいるのです。どんな形であったとしても、福音が述べ伝えられるなら喜んでいると言っています。私たちもそのような者になりたいとは思いませんか。本当の私たちの喜びの一つはそこにあるのではないでしょうか。私たちのオイコスやこの国、全世界にまで、どのような形であれ、なんにせよ、福音が述べ伝えられていることを喜ぶ者となりたいものです。自分の願いがかなったとか、成績が上がった、給料が上がった、熱が下がった、キュウリの値段が下がった、そのようなことは、いつも喜んでいられることではないのです。私たちは、変わらない神さまのご計画の中で、自分自身の使命を知って、そのように生きるとき、そこに喜びがあるのです。そのときいつも喜んでいられるのです。  M.H