2013年, 5月のブログ

2013年5月26日 

世の終わりまで共にいる

 

 先週はペンテコステでした。聖霊が下ってきて人々が異言で語ったこと、自分の力に頼らずに聖霊の力に頼って生きることなどを学びました。

 「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」とキリストは約束されてから昇天しました。共にいると言いながら離れるのは少し不思議に思えますが、天に戻ってからも私たちと共にいる約束を果たすために、聖霊を送られました。

 イエスが十字架にかけられる前、「助け主」を送ると約束されました(ヨハネ14:16)。まさに聖霊です。しかしそもそも聖霊はなぜ送られたのでしょうか。私たちに力を与えるため、私たちにキリストの言葉を明かすため、いろいろとあるでしょう。

 パウロは御霊の賜物についてⅠコリントで語っています。知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇蹟、預言、霊を見分ける力、異言、異言の解き明かしが挙げられています。

 近年、「聖霊の動き」というものが世界中でいくつも起こっています。ジーザスファミリーでもリニューアルという大きな恵みに預かりました。預言や幻など、さまざまな聖霊の働きを経験し、教会が強められ、励まされました。しかし教会の中で満たされ、潤され、励まされることに満足してしまっている状況の教会をよく耳にします。

 教会が強められることはあくまでも通過点であり、全世界に出て行くように命じたのも、「あなたを選び任命した」と言われたのも、聖霊を送られたのも、全て神の福音が宣べ伝えられるためです。「言って実を結びなさい」とキ

 

 

リストは言われました。その実についてパウロはガラテヤ5章で語っています。

 これらの実は決して宗教的なことや教義的なことではありません。人々の必要に実際に届いていくことができます。それを通して人々がキリストに触れることができます。このように実を結ぶことが、聖霊に満たされるいちばんの理由ではないでしょうか。

 私たちはこのように善い行いをし、人々に神の愛を伝えるために、聖霊がいつも私たちと共におられ、力を下さいます。世の終わりまでいつも共にいると仰ったキリストの約束は、今も生きています。

 

 

 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。」

                        ヨハネ14:16

 

 

 「しかし御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」          ガラデヤ5:22-23

 

                              K.F

 


2013年5月19日 

主と共に

 

 私は、夢中で岩をよじ登っていました。大変な絶壁だったけれど楽しく、爽快な気分で。ふっと横を見ると、すぐそばにイエスさまが私と同じように岩をよじ登っておられました。私の方をにこにこと見つめながら、しばらくは、イエスさまといっしょに、順調に上っていたのですが、あるところまで来たとき、私は動くことが出来なくなって、それ以上は、登ることが出来なくなってしまいました。私は、隣を登って来ておられるイエスさまのほうを見ました。やはり、にこにことこちらを見て微笑んでおられます。

 私は「イエスさま、もう登れません。もう動けません」とイエスさまに語りかけました。でもイエスさまは、にこにことこちらを見ておられます。そして語られました「私といっしょに登りなさい」私はイエスさまに言いました「イエスさま、わたしは、いっしょに上っているじゃないですか。今こうして隣同士になって岩に張り付いているじゃないですか。」するとイエスさまは「確かにあなたは、私といっしょに歩んでいる、でもあなたの力で岩に張り付き、あなたの力でこの山を登ろうとしている。私にすべてを明け渡してゆだねなさい。」と語ってくださいました。私はハッとしました。確かに自分はイエスさまといっしょに歩んでいると思っていたし、また、いつもイエスさまと共にいると信じていました。そして自分の召命をイエスさまと共に歩んでいると確信していました。私はイエスさまといっしょに、ロッククライミングをしていたのです。しかし、自分の力を振り絞って。そこで私はイエスさまに「どうすればいいのですか、私は。」とたずねました。イエスさまは、「岩から手をはなし、私におぶさりなさい」と優しく語りかけて下さいました。横におられる、イエスさまにおぶさるって・・私は、この断崖絶壁の中で、つかまっている岩から手を離さなければならないと思って、恐怖を感じました。でもイエスさまは優しくさあ来なさいと言う目でこちらを見つめておられます。私が意を決して岩から手を放しイエスさまの背中へと移ると、イエスさまは私を背負い、こともなくその岩をよじ登ってくださいました。そして私に、「あなたは確かに私と共に歩んでいる、でも自分の力で」と、語ってくださいました。これはもう20年近く前に、リニューアルの集会の中で主が私に見せて下さった幻です。そしてこのときから私はすごく楽になったというか、これが主と共に歩むってことだということが分かったように思います。と言いながらもまだ、自分で、自分の力で歩んでしまってしんどくなって、この出来事を思い出しての繰り返しですが。

 私たちは、すべてをゆだねる、主と共に歩むと言いながらも自分に頼り、自分の力で歩んでしまうものです。

イエスさまは、ご自分が去って行かれる時に、自分が去って行ったなら、もう一人の助け主を遣わすと言われました。そして、その約束通りに私たちに聖霊さまを遣わしてくださったのです。その聖霊さまを受け取って、その聖霊さまに満たされて、聖霊さまにすべてをゆだねて、聖霊さまと共に歩もうではありませんか。幻の中でイエスさまにおんぶされて岩を登らせていただいたように。

私たちは、聖霊さまの力がなかったら働きはおろか、クリスチャンとしての日々の生活すらできなくなってしまいます。神さまは、皆さんおひとりおひとりを主の働きに解放し、さらに高みへと導きたいと願っておられるのです。そのために、助け主を私たちに遣わしてくださっています。その助け主、聖霊さまこそ私たちのすべての原動力です。さあ今受け取りましょう。そして聖霊さまの働きに、すべてをお任せしゆだねましょう。         M.H

 


2013年5月12日 

母プレではございません

 

今日は、母の日です。お母さん方本当にご苦労様です。また、わたしたちジーザス・ファミリーのお母さん方に心から感謝いたします。この家族をいつも影に日向に支えて下さっているそんな教会のお母さん方、ありがとうございます。教会にとって、この家族にとってお母さん方の存在は、大きな、大きな支えです。

 

良き家庭を築くこと夫婦関係の本の中で、とても興味深い記事がありました。

今日、母の日にお母さん方にというより、そのご主人たち、またすべての男性方必読です。より素晴らしい家庭のために参考になればと思います。

 

著者は羽丹吉一さん。明治41年に書かれたもので「主人のしてはならぬ事20箇条」です。

 

①朝寝はしてはならぬこと 

②夜更かしをしてはならぬ事 

③身の回りの用事にいちいち妻を呼び立ててはならぬ事 

④食事の知らせを受けながら、自分の都合のために時をのばしてはならぬ事 

⑤食事を始めてから、にわかにあれこれと料理の注文をしてはならぬ事

⑥みだりに客を引き留めて、予期せざる接待の責任を妻に負わせてはならぬ事

⑦出入りに妻の送り迎えを要求してはならぬ事

⑧行先を言わずに外出をしてはならぬ事

⑨たびたび外でふいに食事をして、せっかく待っている妻を失望させてはならぬ事

⑩どんなに忙しくても、夕食後の時間は、家族と団らんの楽しみを共にすることは忘れてはならぬ事

⑪妻を疑ってはならぬ事

⑫妻に疑われてはならぬ事

⑬妻の仕事に干渉してはならぬ事

⑭妻の相談を冷淡に聞き流してはならぬ事

⑮妻の意見を頭からけなしてはならぬ事

⑯子供の前で妻を軽んずるがごとき語気をもらしてはならぬ事

⑰子供を甘やかしてはならぬ事

⑱気に入らぬ事があったとて荒々しき声を出してはならぬ事

⑲同じ場合に、不愉快な顔をして黙り込み、長く妻を苦しめてはならぬ事

⑳要するに、自分のために家庭があるかのごとく思ってはならぬ事。自分も家庭なる共同生活の一員であるということを忘れて自分

  の都合のために家族の利益と幸福を犠牲にしてはならぬ事

 

今から、およそ100年前に書かれたものですが、私たちは、どれほど進歩したのでしょうか。

私は反省しきりです。

ただ、お母さん方、これは、ご主人を責めるための道具を母の日にプレゼントしたのではございません。いっしょに、より良い家庭の建設を考えるためのものですのであしからず。

                      M.H

 


2013年5月5日 

恵みあるのみ

 

 ゴールデンウィーク、皆さんは、どのようにお過ごしになられたでしょうか。金曜日、そして土曜日と私は、カリスチャペルで行われた聖会に参加しました。とても恵まれ、リフッレッシュ出来る、そんなひと時でした。神さまの臨在の中で、賛美をし、み言葉を聞くことが出来るって、なんて贅沢なことでしょう、と。改めて感じました。ジーザス・ファミリーの賛美の奉仕も素晴らしかったです。

 私たちは、本当に幸せなものですよね。この天地をお創りになられてすべてをご支配しておられる神さまが、私たちのお父さんなんですから、しかも、そのお父さんは、天にあるすべての霊的祝福を持って私たちを祝福してくださったんですから。本当に半端じゃない幸せではないでしょうか。

 神さまは、私たちが何者だというので、こんな?私たちを顧みて下さったのでしょうか。いったい、私たちは何者だからというので、こんなにまでもの祝福をいただいているのでしょうか、自分自身の功績が優れているのでしょうか、自分の今の行いが、非の打ち所もなく立派だからこんな祝福を受けているのでしょうか。答えはいいえです。ただ恵みだけなのです。今日は、いっしょに恵みを考えてみましょう。

 神さまは、私たちを愛して下さり、こんな罪人だった私たちのために、ご自身のひとり子イエスさまをこの世界に遣わしてくださいました。罪に満ちたこの世界を裁くためではなく、この世界を救うためにイエスさまは来てくださったのです。そして、イエスさまは、私たちの罪の身代わりとなって十字架について下さったのです。その十字架の血潮によって与えられた罪の赦しを私たちが、ただ、信じて受け取るだけで、

 

 

罪は赦されて、神の子どもとしてくださったのです。しかも、イエスさまは、十字架で死んでくださっただけでなく、死の力を破り、よみがえってくださいました。イエスさまを信じるなら、そのよみがえりの力にあずからせて下さり、さらに、聖霊さまというもうひとりの助け主を与えて下さり、私たちにその聖霊さまが臨んでくださったなら私たちは、力を受け地の果てまでイエス・キリストの証人とならせて下さるのです。神さまは、私たちの状況がどうであろうとも、いつもいっしょにいて下さり世の終わりまでも共にいて下さると約束してくださっているのです。長くクリスチャンである方は、このようなことは、分かっていますよね。だから、あまり考えないかもわかりませんが、思い巡らせてみたら、この祝福って、本当にすごいことだと思いませんか。しかも、これらすべての祝福は、ただ恵みによって与えられているのです。ただ一方的に、神さまが私たちを愛して下さり、私たちに恵みを施してくださったのです。神さまが、私たちの側に要求しておられることは何もないのです。ただ私たちに、施してくださり、私たちは、それを素直に受け取るだけなのです。

 ダビデは、ただメフィボシュテにヨナタンのために恵みを施したいだけでした。メフィボシュテはただへりくだって、それを受け取りました。ダビデがメフィボシュテに施したもの、そして、メフィボシュテは、いったいどのような者で、その受けたものは、どんなものだったのでしょうか。いっしょに見てみましょう。そして、私たちも、ただ、私たちを愛して、一方的に私たちに恵み与えて下さった神さまの、その恵をへりくだって受け取りましょう。       M.H