2013年, 6月のブログ

2013年6月30日 

役に立つものへ

 

 わたしたち、クリスチャンは、神さまの恵みのゆえに信仰によって救われ、新しくされこの世界につかわされています。当然、わたしたちは、このつかわされた世界の中で人々と関係を持っていかなければならないのです。

 よりよい、人間関係を築いていくことはそう簡単なことではありません。

 みなさんは、自分のまわりにいる人々に関心を持っているでしょうか。

 職場で、家庭で、近所づきあいの中で、私たちが人と接するとき、関係を築こうとするとき、相手に対する見かたや、考え方、接し方はどのようなものでしょうか。

 今日、そのようなことを少しいっしょに考えていきましょう。

 わたしたちが、人と関わる時に先入観や偏見といったものを持ってしまってはいないでしょうか。どうせ、この人は無理、変わらない、そんな見方で人のことを見ていたり、この人と自分とは違うからとあきらめしまっていたりということはないでしょうか。

 自分は、どんなものだったのでしょうか。こんなに変えられたのに・・

 また、自分の考えや、意見を押しつけるだけで、人の必要には全く答えていない、そんなことはないでしょうか。

 わたしたちは、本当にその人に関心を持って、その人のことを気遣っていると言えるでしょうか。

 「人々は、あなたがどれだけ気遣ってくれるかを知るまでは、あなたの知識がどれほど豊富であろうと意に介さ

 

 

ない。」            ジョン・マックスウエル

 

 このつかわされた世界の中で、人々に仕え、福音を届けて行くために、私たちは、私たちのまわりの人々に対して、その接し方、見方を変える必要があるのではないでしょうか。

 神さまは、どんな人でも、造りかえることが出来るお方です。わたしたちの目から見たらどうしようもないと思えるような者でも、神さまの目には高価で尊い存在なのです。神さまにとって、大いに必要とされた者なのです。必要でない者などいないのです。

 聖書の中に、オネシモという人がでてきます。オネシモは奴隷でした。しかも、主人のものを盗み逃走してしまいます。人の目で見たら、役に立たない、どうしようもない、そんな人だったでしょう。そんな中でパウロとの出会いを通して、主に、造り変えられ、主人のもとへと送り返されて行きます。役に立つものと変えられて。パウロのオネシモへの接し方。関わり方はどのようなものだったのでしょうか。

 この話の中で、私たちの人との関わり方、そして、神さまの大きな恵みを考えてみましょう。

 

 彼は、前にはあなたにとって役に立たないものでしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つものとなっています。   ピレモンへの手紙 11節

                               M.H


2013年6月23日 

ダビデのように

 

 皆さんは、日記をつけたことがありますか。その日の出来事とかをただ綴るだけではなくって、自分の内面の心情や思いのあり様、人や、神さまへ対する気持ちなどをきれいに、詩のように綴ってみるなんていうのはどうでしょうか。あのダビデがそうしたように。

 旧約聖書の詩編の多くはダビデによって書かれ、ダビデのたましいの内側を知ることが出来ます。そんなダビデの内面の記録ともいえる詩編を読んで、果たして、その実際の状況はどのようなものであったのか、外面ではどんな出来事があったのかを見てみるととても興味深いものです。

 ある時、あの有名な詩編23遍がどのような状況で、どのような自然環境の中で書き記されたか、考えさせられたことがありました。そして、その環境、状況から想像して、その時のダビデの精神状況はどんなだっただろうと考えながら読んで見ました。すると、詩編23遍が、今までとは違った味わい、語りかけへと変わりました。詩編をその状況と照らし合わせて読んでいく時、何気なく普通に読んでいた時とその味わいや、何よりそこから私たちの人生に語りかけてくることを読み取り神さまの御心を知るうえで大きな違いになるのではないでしょうか。

 詩編の中で、それがどのような時に読まれたかということをはっきりと示唆しているものがあります。そんな場面をサムエル記などから見て、そしてその状況を考えてみてみましょう。

 詩編56編の中では、ダビデは、13節でいのちを死から救い、その足をつまずきから救い出してくださった神さ

 

 

まに感謝をささげています。そして、11節では、私は、神に信頼しています。とダビデは神への賛美を書きました。そこを読むとき私たちは神さまが奇跡的な方法でダビデを苦境から救い出されたかのような印象を受けますが。実際それが書かれた状況というはどのようなものだったのでしょう。Ⅰサムエル記の記事を見たら・・・

 詩編の18編を見たら、そこには、ダビデの素晴らしい戦歴が書かれています。

 彼が王の座に就いた時に書かれたもので、神さまから与えられた、素晴らしい救いの軌跡が記されています。

それを読めば、ダビデが神さまに守られた安全な人生を送ってきたかと思いますが、サムエル記に記されているダビデの人生の実際はどのようなものだったのでしょうか。

 それは、決して、安全な人生とは言い難いものです。

他の詩編も見ながら、今日ダビデが、自分自身の外面で起こったことを、その内面はどのように捉えているかを見て、ダビデがどのような思いで詩編を記し、どんな態度で神さまと向き合い、その人生を歩んだのかを見ていきましょう。

 ダビデは、外面では、欠点や、失敗、汚点だらけであるのに、主の御心にかなう者と言われています。その、秘密がそんなダビデの生き方にあるのではないでしょうか。神さまは、うわべではなく心を見られるお方です。

 

                               M.H 

 


2013年6月16日 

今日は父の日です

 毎日、一生懸命働いて、家族を支えて下さっているお父さんたちに心から、ありがとうの感謝の気持ちを言葉にして贈りましょう。さまざまなプレッシャーの中で、日々、自分自身の弱さや、足りなさを覚え葛藤しながらも父としての責任を果たそうとしているお父さんたちが、成長し前進していけるように、慰めと励ましの言葉を贈り、祈って支えていきましょう。
 そして、私たちの目を上げて、私たちの天のお父さんである神さまへ感謝と賛美をささげていっしょに心から礼拝しましょう。
 また、今日は私たちこのジーザス・ファミリーのお父さん??フォーセットさんがみ言葉を取り次いでくださいます。父の日に、天のお父さんの御心を私たちが、今日、私たちジーザス・ファミリーの霊のお父さんであるフォーセットさんを通して、受け取ることが出来ることを感謝しましょう。フォーセットさんルーシさんお帰りなさい!!
 さらに、今日は、市川さん夫妻が受洗されます。
 きっと天のお父さんは、今日生まれるお二人に大きな喜びをもって愛の目を、特別に注いでくださっているでしょう。今日、天で大きな喜びが沸き起こっていると確信しています。
 そして、その喜びと愛の目は、わたしたちにも日々注がれているのです。
 13日の木曜日に、子どもの中学校の体育大会がありました。子供が幼稚園の時にも、小学校の時にも同じようなことを言っていたと思いますが、競技している子どもたちを見る私の目は、わが子に釘付けで、ただ、子ども

たちの姿に、勝ち負けとか上手下手ではなく、一生懸命やっているからでもなく、ただ、自分の子どもであるというだけで、感動し、うれしくって、超親ばかになってしまいました。
 そして、そんな自分を思うとき天のお父さんもきっと私をこのように見ていて下さるんだ。生まれたばかりの者でもないし、幼稚園児でもない、もう中学生の子どもにも、同じように見る父親のように天のお父さんも、もう長くクリスチャンとして歩んできている、そんな私たちも、生まれたばかりのクリスチャンも同じように、ただ子どもというそれだけで、愛の目を持って今日も見つめていて下さるのです。
 天のお父さんは、いつも、私たちと共にいて下さり、私たちを励まし、勇気づけ、導きを与えそして、私たちに最善の人生を歩ませて下さるお方です。そんなお父さんについて行こうではありませんか。いつもお父さんから聞いて語られることに従順に従って、お父さんが描いて下さった素晴らしい私たちひとりひとりの道を歩んでいきましょう。天のお父さんにとって、どうでもいい子どもはありません。何の計画もない、何の期待もない、そのような子どもはないのです。私たち、ひとりひとりは、天のお父さんのご計画の中で生きているのです。私たちの最高のお父さんをいっしょに礼拝しましょう。
                              M.H 


2013年6月11日 

大事なのは

 

 私たちは、だれのために、福音を述べ伝えようとしているのでしょうか?

 私たちは、だれのために、日々奉仕しているのでしょうか?

 私たちは、だれのために、教会が成長することを願っているのでしょうか?

 私たちは、だれのために、生きているのでしょうか? 自分のため?! 

 自分を誇らずにキリストの十字架だけを誇って生きるってどういうことでしょうか。この世の罪に対して死んで、神に対して生きるって。私たちは、そのようなものであるはずです。少し自分のことを考えてみてはどうでしょうか、自分に死んで、もはや、私ではなくキリストが私のうちに生きておられると言えるでしょうか。時々そのように、自問してみてはいかがでしょうか。

 私たちは、キリストのうちにあるものです。もはや古いものは過ぎ去って、すべては新しくなったのです。しかし、日々の生活の中で、私たちはどのように生きているのでしょうか。あいかわらず、古い自分のままの考え方、行い、ふるまいをしてしまっているのではないでしょうか。

 

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。                        Ⅱコリント5:17

 

また、パウロはガラテヤの人にこのように言っています。

 

 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。         ガラテヤ6:14

 

 

 イエス・キリストの十字架によって、この世界はもう死んでしまったのです。つまり、この世界と自分とは、何のかかわりもないものとなったと言っているのです。

 かなり、極端ですよね。私たちは、この世界に住んでいます。しかし、キリストに生きるものなのです。この世界の評価、基準の中で生きるものではなく、神の国を生きるものなのです。この世界で受ける、誉れや、賞賛は私たちの誇りではないのです。私たちは、ただキリストの十字架だけを誇るものなのです。

 そうは、わかっていても皆さんいかがですか、この世の基準や評価で、一喜一憂して、誇ってみたり、落ち込んでしまっていることはないでしょうか。

 今、もし何かで落ち込んでいたなら、最初の自問に戻って考えてみて下さい。あなたの古ものはすべて過ぎ去ったのです。見て下さい、あなたのすべては新しくなったのです。

 今、何かで自分を誇っているようなことがあれば少し立ち止まって考えてみてはいかがでしょうか。それは単なる自分の肉の要求を満たしていることではないでしょうか。誇れることは、ただ十字架のみなのです。もう私たちは、肉の世界に生きるものではありません。御霊によって歩む者なのです。律法に縛られ自分の行いでそれを全うしようと、もがき苦しみ生きるものではなく、新しく造られたものとして生きるのです。

 

 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

                           ガラテヤ6:15

 

                              M.H 

 


2013年6月2日 

実を結んで

 

 私たちはイエス・キリストによって罪から解放され、自由を得ました。

 その自由は、何のために与えられているのでしょうか。

私たちが、わがまま放題、好き勝手に生きるためでしょうか。「その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」と、み言葉にあります。言い換えれば、その自由は、私たちが愛によって働くためのものなのです。

 その愛とは、いったいどこから来るのでしょうか。律法の全体を全うしてしまうほどの愛はどこから生まれてくるのでしょうか。私たちが、口先で「愛しているよ。愛するよ。」と言うことは簡単なことかもしれませんが、本当に真実に愛することは、そんなにたやすいことではありません。時々、私たちは、隣人をまた互いを愛するとか、愛していると言いながらも、その実、愛せなくって、また、愛し続けることが出来なくって、自分で自分が悲しくなってしまうようなことはありませんか。私たちは、本当の愛、すべての律法を全うするそんな愛を持つことは可能なのでしょうか。可能だとすれば、どうすればできるのでしょうか。パウロは、愛は、御霊の実であると言っています。御霊の実として結ばれるものなのですと。それは御霊によって歩む者が結ぶものなのです。御霊によって歩むものが結ぶ、その実は愛だけではありません。御霊は私たちに、愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ばせて下さるのです。

 この九つの実を三つのグループに分けると、まず第一番目は、神さまと人に対する愛の実で、愛、喜びそして

 

平安の実です。そのような実が結ばれて、神さまが与えて下さる喜びと平安を持つことが出来るのです。不平不満の人生から、神さまを愛し、喜びと平安をもって人々に仕える者へと変わるのです。

 第二番目は、社会に対する実として、寛容、親切、善意の実が結ばれます。自分自身の事すら赦すことが出来なかったものが、聖霊さまの働きによってどんな人に対しても寛容に、親切に仕えることが出来るようになるのです。

 第三番目は、自分に対する実として、誠実、柔和、自制の実を結びます。何に対しても忠実に取り組める誠実さ、それは、また信頼されるものへと変えられることでもあるのです。柔和は、神さまに対しての従順ということが出来るでしょう。そして、自制です。正しい事とわかっていても行えない、悪い事とわかっていながらも行ってしまう。そんな惨めな自分から自由にされ、神さまの栄光のために自分を治めることが出来るようになるのです。

 私たちが御霊によって歩み、神さまを礼拝し、賛美し、祈り、み言葉を学んでいく、そんな中でこのような素晴らしい実が私たちの内に結ばれていくのです。

 肉の行いのために、滅びるしかなかった私たちが、こんなに素晴らしい実を結ぶことが出来るようになったのです。驚くべき主の恵みではないでしょうか。

 私たちは、もっともっと御霊によって歩むことに成長し、豊かに御霊の実を結ばせていただき、主にあって愛によって働くそんな豊な人生を歩んでいきましょう。

                              M.H