2013年, 8月のブログ

2013年8月27日 

夏まつりだ!仮装を解いて

 

 今日は恒例の夏まつり礼拝!みんなでいっしょに、天地をおつくりになられた神さまをほめたたえ、礼拝し、与えられたこの日を共に喜び、楽しみ、暑さもぶっ飛ばしましょう。

 私たちを愛してくださり、すべての咎を赦してくださり、すべてのやまいをいやしてくださり、いのちを与えてくださり、一生を良いもので満たしてくださり、そして、いつも私たちを守ってくださる神さまを、心からの賛美と踊りを持ってほめたたえましょう。

 私が休暇中に滞在していた町で、たまたま夏まつりがおこなわれていました。それは、夏まつりと言っても神社仏閣などの神事ではなく、町のイベントの一つでした。歌謡ショーが行われ、町の人たちが食べ物やゲームの屋台を出して、そしてメーンは、にぎやかな音頭に合わせての踊りでした。しかも、出演者は仮装で踊るものでした。その町の人たちだけではなく、まわりの町の人や遠くの市から参加している人たちもいて、とても楽しいものでした。かわいい子どもたちが、凝った衣装を着けて、ももいろクローバーや今話題のTVドラマ、あまちゃんに扮していたり、地元の銀行員の方のすね毛もじゃもじゃのAKB、大がかりな銀河鉄道999など、見ていて微笑ましいものや感心するものから、首をひねりたくなるようなものまで、とにかく楽しいものでした。

 今日は私たちも夏まつりですが、私たちは、仮装をして神さまの前に出るのではないのです。

 ある意味では、全く逆で私たちは、天のお父さまの前に、本当の自分自身を包み隠すことなく何もつけずに出

 

て行けるのです。そのようにして出て行って、今日いっしょに心を合わせて神さまをほめたたえようではありませんか。

 私たちの天の父なる神さまは、私たちをそのままで受け入れて下さり、愛して下さっているのです。何も繕う必要はないのです。仮装しなくても、そのままの自分でいいのです。

 皆さんは、つい自分をよく見せたくって、または、自分自身が嫌で違う自分に見せたくって、他の自分を演じてしまっていませんか。そのままの自分でいいのです。天のお父さんは、ありのままのあなたを、そんなあなたの存在、それ自体を大切で高価で尊いものと言ってくださっているのです。

 自分の頑張りで、いい子になろうとしていませんか、人に対しても、神さまに対しても。頑張ることをやめて、そのままのあなたを愛して下さっている、父なる神さまのところへ行こうではありませんか。仮装しなくてもいいんです。

 町の仮装大会は、最後に投票によって順位が決められ、それぞれに賞が与えられていました。私たちは、自分の頑張りを置いて、自分で取り繕うことを置いて仮装することなく裸の自分自身を素直に認めて神さまの前に出ていく時神さまは私たちを喜んで下さるのです。もう仮装して生きることをやめましょう。あなたはあなた自身でいいのです。あなたの存在が神さまに受け入れられ、この家族に受け入れられ愛され必要とされているのです。何かできるから、頑張っているからではないのです。

                               M.H 

 


2013年8月18日 

あなたがあなたであるために

 

皆さんは、自分の未来をどのように描いているでしょうか。自分の将来を、自分の思いや経験で考えたら、私たちが予測するものは、まるで天気予報や、交通渋滞予測のようにいい加減で、頼りないものになってしまいます。そして、それは大体、今の状況や状態を見て、否定的で悲惨な未来を考え、悲観的になってしまうことが多いのではないでしょうか。しかし、私たちには、神さまが計画してくださった、確かな将来があり、希望があるのです。そんな未来を実現するためには、まず私たちは、神さまによって造られ、神さまは、私たちを愛して下さっていること、そして私たちに素晴らしい人生をご用意し計画して下さっているということを、知って、信じて、そして、従っていかなければならないのです。あなたは、神さまに計画をもってつくられ、愛され、期待されているそんな存在なのです。

 

 ラッセル・ケルファーという人の詩を紹介いたします。

 

あなたはある理由のために存在しています。

あなたは細かく精密な計画の一部を担っている存在です。

あなたは尊い存在であり、

しかもこの世に二つとないデザインで造られ、

神の目にかけがえのない女性、あるいは男性と呼ばれます。

 

あなたが今の姿でいるには理由があります。

私たちの神に失敗はありません。

神はあなたを母の胎の中で育まれました。

あなたは神が望まれたとおりの姿をしているのです。

 

あなたにその両親を選ばれたのは神です。

どう感じようとも、

あなたは神が望まれたとおりにデザインされ、

主の証印を押されているのです。

 

あなたが受けた心の傷は決して軽くはありませんでした。

しかし、あなたがその傷に苦しむたびに

神も涙を流しておられました。

やがてそれはあなたの心の糧となり、

あなたは成長して神に似た者とされました。

 

あなたがあなたであるには理由があります。

あなたは主のむちによって整えられてきました。

あなたはありのままで愛されています。

そのような神がおられるのです。

                    (人生を導く5つの目的より)

                               M.H 

 


2013年8月11日 
私たちの心の土の状態はどうでしょうか?
私たちはクリスチャンとして神様と強固な絆、心と心が通い合う関係をもって
生きていきたいと願っているでしょう。神様は私たち以上にそう願っておられ
ます。私たちを愛しているから、私たちに最高の人生を送ってほしいから、
私たちのもっている素晴らしいものをご自身の御業のために用いたいから、
私たちに毎日色々な形を通して語りかけて下さいます。
 聖書は勿論、教会でのメッセージ、友人との些細な会話、平日に学校や会社、
家庭で起こる出来事を通して、私たちがどう歩むべきか導いて下さり、私たち
の心をキリストの似姿へと変えて下さいます。しかしその導きに歩み、心が変
わって成長していくためには、聞く耳を持たなければなりません。聞いたこと
に従うのも大きな課題ですが、まずは色々な形で語りかける神様の声を聞ける
ようにならなければなりません。悪魔は勿論それを聞かないよう私たちの邪魔
をしようとします。
このことをイエス様は「種まき」のたとえ話で話されました。
固い土地、岩地、いばらの地、良い土地・・・私たちの今の心の状態はどれ
でしょうか。このたとえ話はよく、未信者が神様のことを聞くときの心の状態
として解釈されがちですが、イエス様の元々の意図はおそらく違います。
イエス様は「実を結ぶこと」を強調されたからです。他の箇所でも弟子たちに
実を結ぶことを幾度も例えを用いながら話されました。ですから、もう一度、
蒔く側ではなく、蒔かれる側になって、自分自身の心を見つめ直してみません
か。
神様が私たちに日々語りかけられていることを本当に聞けているのか。それを
邪魔しているものは何か。
恐れや不安なのか、それともこの世の誘惑や欲望なのか。そもそも神様の声が
聞こえるような心の態度を保てているのか。私たちは神様のために何かをしたい、
御国の拡大にお役に立ちたい、と思っていることでしょう。しかし私たちが色々
勝手にやっても神様のためにはなりません。神様の声なしでは何一つできないの
です。その声をしっかり聞いて、それに従って動くことで、実を結んでいく教会
になりたいと切に願います。
 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはでき
ません。」ヨハネ15章4節                                    K.F

 


2013年8月4日 

それをほどいて、引いてきなさい

 

 「人にはキリスト様がついていなかったら、ゴミあつかい、だけどキリスト様がついていたらちゃんとした人になれる??」キッズキャンプでのある子どもの感想です。イエスさまなしでは何もできないということを自分なりに捉えているのでしょう。自分に何もなくても神さまの栄光が自分を通してあらわされるということを。イエスさまを乗せて運んだ小さなロバの子の話をしました。そして、ひとりひとりがそのロバの子となってイエスさまを国々にまで運んでいくことを。高学年と中1のキャンプに来てくれた子どもたちひとりひとりが真剣に、目を輝かせて聞いてくれているその姿にこの子たちは主の弟子であり、未伝の国々への主のハートを何らかの形で心の中にしっかりと宿していると確信しました。

 小さなロバの子が、エルサレムの町を行進していきます。だれも見向きもしません、それどころか邪魔者扱いされています。昨日はあんなに歓迎されたのに、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」あの興奮はどこへ行ったのだろう。今日はなにか、様子が違う??ロバの子は悩んでいます。

 イエスさまが小さなロバの子に乗ってエルサレムへ入城された翌日の光景のあくまで想像です。イエスさまを乗せているとき、乗せていないとき、何かのCMのようですが、私たちは、イ

 

エスさまを、その栄光を運ぶ小さなロバの子なのです。私たちがえらいのでも栄光あるものでもなんでもなく、私たちは、ただ主の栄光を運ぶ器なのです。主は小さな私たちのようなものを用いて、ご自身の栄光を表してくださるお方なのです。

ロバの子は、向こうの村でつながれていました。その行動範囲はロープの届く範囲、ロバの子自身で出来ることは何もありません、何しろまだ誰も乗せたことのないロバの子なのですから。しかし、イエスさまはそのようなロバの子を用いて下さるのです。つながれていたロープから自由にされ、行ったこともないところへ行き、経験したことのないことを経験させていただき、受けたこともないような喝采を浴びさせて下さるのです。

 私たちは、今日も人々の救いのために、国々の救いのために、主をお乗せして主を運ぶ小さなロバとなろうではありませんか。

 イエスさまのエルサレムへの入城のこの話の中でもう一つ、この小さなロバをイエスさまのところへ連れてきた弟子たちのことを少し考えてみましょう。

 イエスさまは、弟子たちに向こうの村へ行って、ロバの子を見つけロープをほどいて連れて来るようにと命じられました。弟子は見事に命じられたそして助言されたその通りのことをして、このロバの子を連れてきたのです。そんな弟子に少し焦点を当てて、今日いっしょに考えてみましょう。     M.H