2013年, 11月のブログ

2013年11月24日 

イカすイキイキとしたイキなイキ方

 

私たちには、大切にしている、10のSがあります。

 

Spiritual(霊的な)、Sensitive(敏感な)、Simple(簡単な)、Soft(柔軟な)、Straight(まっすぐな)、

Shine(輝く)、Smile(微笑んで)、Smart(かっこよく)、Speedy (敏速な)、Strategically (戦略的な)

 

 笑顔で、そして好意的に生きていますか?自分の周りの人たちがあなたに好意を持ってくれるような生き方をしていますか、イエスさまが私たちをご覧になられたように私たちも周りの人たちを見ているでしょうか。私たちがそのように生きるとき人々がそこに引きつけられてくるのです。恵みに目を向けましょう。今日はスマートに生きるということについて考えて見ましょう。私たちが目指すスマート。それは、主にあるカッコいい生き方、粋な生き方、そしてそれは、まさに主の栄光を映す生き方と言えるのではないでしょうか。自分のために生きるのではなく主のために生きる生き方こそが、主にあるスマートな生き方と言えると思います。

 

 あるひとりの男性の生き方を紹介しましょう。

 Yさんは、表現力乏しく語ることの少ない方でした。奥さんをなくしてからも他の人の勧める再婚話には乗らず、三十を過ぎた一人娘の結婚を願いながら、小さいながらも我が家をもっていることが喜びでした。そして孫の顔を見て死にたいというのが口癖でした。

 

 

 

 定年後、盆栽いじりをするそのような平凡な生活の中

に突然、予期せぬ事が起きました。ある日を境に娘さんが家に帰ってこなくなったのです。友達の保証人になってその借金を背負ったことに加えて自分の借金が重なり、サラ金なども入れて千二百万の負債を抱えている事がわかりました。お父さんのショックは、言葉に言い尽くせないものがありました。しかしYさんは、イエス・キリストより新たなる力を得、まさに魅力ある人生を再スタートなさったとき、七年三か月にして娘さんの借金を全部支払い終えたのです。そして都会に行っているというだけで行先のわからない娘へ「お前の借金は全部支払い終わり、お前は自由の身だ」という手紙を書き残して、三日後に亡くなりました。まさにキリストを信じ、キリストの福音に生きたお父さんです。(魅力ある生き方ガイド・田中信生著より抜粋)

 

 自分のために生きるのではなく、自分のものにこだわるのではなく、自分の価値観でなく御国の価値観の中で主の御足跡に従って生きることこそ、本当にカッコいい生き方ではないでしょうか。私たちもスマートの生きようではありませんか。

 私たちひとりひとりは神さまによって造られたSpecial(特別)なものなのですから。

 

                               M.H

 


2013年11月19日 

笑顔で好意的に生きる

 

私たちには、大切にしている、10のSがあります。

 

Spiritual(霊的な)、Sensitive(敏感な)、

Simple(簡単な)、Soft(柔軟な)、Straight(まっすぐな)、

Shine(輝く)、Smile(微笑んで)、Smart(かっこよく)、

Speedy (敏速な)、Strategically (戦略的な)

 

 いつも笑顔を絶やさない人って、素敵で魅力的ですよね。どこか引きつけられてしまいます。周りから好意をもたれるものです。笑顔の人を見て気分を害したり、いらだったりする人はいません。良く、子どもの笑顔を見たら疲れなんか吹っ飛んでしまうとか、その笑顔に救われたなどの言葉を耳にします。確かに笑顔に嫌悪感を持つ人はいないでしょう。でも、逆に考えて見たら私たちはどうでしょうか。そのように魅力的に毎日笑顔を絶やさずに生きているでしょうか。そんな風に笑顔を絶やすことなく生きていけたらいいのですが、なかなかそうはいきませんよね。気が付いたら暗い顔になってはいませんか。どこか、苦い顔になっていませんか、渋面をしてしまってはいませんか。もちろん日々の生活の中で嫌なこともあるし、腹が立つこともあるでしょう。耐えきれないような悲しみを経験することもあります。無理して笑顔をつくろうというのではありません。日々心配ごとは十分にあります。思い悩むこともあるけれど私たちには勝利の主イエスさまが共にいて下さるのです。私たちがどのような状況な中にあったとしても私たちを愛して下さる主が今の私を愛し受け入れていて下さることを覚えるとき、そして、今のこのひと時がどんなにつらい状況であったとしても必ず勝利が約束されているということを覚えるとき、言い換えたらその計り知れない恵みのなかに自分が置かれているのだということを知るとき私たちは笑顔になれるのではないでしょうか。決して無理して作ったものではなく自分自身の内側からわき出でる主の愛によってそんな生き方が出

 

 

来るのです。

 初代教会の人々は、イエスさまのことを知らない人たちの中で、そのような人たちから好意を持たれていたと使徒の働きの中に書かれています。彼らの生き方は好意をもたれる魅力的な生き方だったのです。そして、主は多くの人を救われその仲間に加えられたのです。もちろん彼らの行いや振る舞いが好意を持たれたのでしょうが、私が思うのは彼らが本当に恵みを知ってイエスさまに愛されていることを知って内におられるイエスさまと共に歩んでいたからではないでしょうか。内側からわきあがる喜びの中で、恵みの中にとどまって、本当の自分自身を生きていたのです。それが使徒の働きの2章の終わりに書かれている初代教会の行いの現れとなったのではないでしょうか。私たちも恵みを知りそこにとどまり、周りの人たちから好意を持たれるそのような生き方がしたいものです。

 また、逆に私たちが周りの人に好意的な態度で接することはとても重要なことだと思います。なぜなら私たちが、計る量りで私たち自身が計られるからです。皆さんは人に対してどのように接しているでしょうか、自分のご主人または奥さんに、子どもに、父親や母親にそして近所の方に好意的にその人たちと接しているのでしょうか、笑顔でそのような人たちにかかわっているのでしょうか。ときに私たちは全く逆の態度で人と接してしまってはいるのではないでしょうか。それでは私たちが好意を持たれることはないし、人が救われてその仲間に加えられていくこともないのではないでしょうか。笑顔で、そして好意的に生きようではありませんか。周りの人たちが好意を持ってくれるような生き方が私たちにはできるのです。

 私たちひとりひとりは神さまによって造られたSpecial(特別)なものなのですから。

                                 


2013年11月10日 

ボロ服は捨てて

 

 

 インドのある地域の王さまラジャが、自分の国の民を招いて大宴会を開く計画をし、それが行われるというおふれが、町中に出されました。そして、その宴会に行くには、必ず礼服を着ていかなければならないと書かれていました。それを見たひとりの乞食が思いました。「なんだ、やっぱり私のようなものは行くことが出来ないんじゃないか・・王さまは、本気でみんなに来てもらいたいのか?おかしいじゃないか私みたいな礼服もないボロしかもってないものはどうするんだ。やっぱり、おかしい」と。そして、納得のいかないその男は、宮殿に行って、門番にラジャに合わせてほしいといいました。ラジャの前に言った男は自分が納得できていないことをラジャに話しました。話を聞いた王ラジャは、家来に命じて自分の息子を呼んでこさせました。そして息子に言いました。「あなたの服から1着をこの男にあげなさい。」息子は、自分の部屋に行き一着のきれいな服を持ってきて、それを男に与え言いました「この服は一生、着続けていても決して汚れないし、傷つかない、ボロにはならない服です。」男はそれを受け取って帰っていきました。

 そして、いよいよ宴会の日。男はその服を着て宮殿に行こうとしました。そのときふと考えました。

 「もし、この服が汚れてしまったらどうしよう、万一ボロになってしまったら・・・。」そして、今まで着ていた、きたない服を袋につめて、宴会に持っていくことにしました。宴会では、みんながきれいな服を着て、楽しそうにいっぱいの食事を食べたりしています。しかし、この男はボロ服の詰まった袋が気になって仕方ありません。いつも手から放すことが出来ません。「もし、このきれいな服が汚れたら、傷んだら、ボロになったら、前のボロの服をなくしたら大変」とそれ

 

 

ばかりが気になり、片手はしっかりボロの袋をつかんでいるので、うまく料理を食べることも出来ず、宴会を楽しむことが出来ません。みんなはとても楽しんでいるのに。そして、男は帰って行きました。その後もラジャとの交流を持っていましたが、男は、いつもボロをつめた袋を持っていました。

 月日が流れて、その男が死にそうだという知らせがあって、ラジャはその男のところに行きました。そして、男に聞きました。「どうして、そのボロを大切に持っていたのですか?なぜ棄てなかったのですか?なぜ信じてくれなかったのですか?」死にかけている男のそばには、いつものようにボロ服をつめた袋が置かれてありました。こうしてこの男の人生は面白くも、楽しくもなく終わってしまったのです。

 私たちは、いかがでしょうか。ボロの服を持ち続けてはいませんか。十字架の贖いという全く完璧なものを、主から与えられていながら・・・時々自分のよい行いや、自分の正しさに頼ってはいませんか?神さまの目から見れば、それは、ボロの服のようなものです。私たちは、ただ恵によって救われているのです。行いによるのではありません。もう完全に完璧に救われているのです。私たちの信仰の中心は行いや、経験や、気持ちではなく十字架なのです。自分の、ボロ服を着ることは必要ないのです。ボロの服は捨て去りましょう。

 

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。  エペソ2:8

                                M.H

 


2013年11月3日 

本当の幸せ

 

 イエスさまは言われました。

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものだからです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることは出来ません。」

 今日、私たちは特別に子どもたちを祝福して、子どもたちのために祈るときを持ちます。

11月といえば巷では、以前よりは少なくなったとはいえ、七五三で神社に子どもを連れて行って、きれいな服を着せ、写真スタジオで記念写真を撮って馬鹿高い代金を払って、そして自己満足をしてとそんなことが行われているのではないでしょうか。子どもにとって本当の幸せって何なんでしょうか。

聖書の中に一人の少年の話が出てきます。私はこの少年は本当に素晴らしい経験をし、大きな祝福を受けたと思います。本当に幸せな少年だと思います。小さなお弁当ひとつで?

 あるとき、イエスさまは大勢の群集がご自分のところに従ってくるのを見て、その群衆のための食事を用意しようと弟子に言われました。しかし、そこにはレストランもなく、何か買ってくるためのお金もありませんでした。そんな時、一人の少年が自分の持っているお弁当を差し出したのです。群衆の数は男だけで5000人!へぇーバカみたいそんな物でなんになる?5000人で考えたら本当に小さなものです。取るに足りない、ないに等しいそんなもの。しかしイエスさまはそのお弁当、2匹の魚と5つ

 

のパンを祝福してくださいました。それによってそこにいた人たちみんなが満腹したのです。少年の差し出した小さなもの(少年にとってはすべて)によって多くの必要が満たされたのです。それを見た少年はどんなにうれしかったでしょうか。(私だったら興奮しておなかがすいていることも忘れてしまうほどでしょう)自分の持っているものが用いられた、ないに等しいと思えるようなもので人々の必要を満たすことができた。自分のものが神さまの奇跡に用いられ神さまの栄光のために用いられた。私たちにとってこれほどの幸せがあるでしょうか。

 多くの子どもたち、大人たちも自分は何もできない、自分は小さなもの、役に立たないものと考えています。しかし、自分の持っている小さなものでも神さまの前に差し出すなら、それを神さまは用いてくださるのです。あなたの手の中にある小さなものを神さまに使っていただこうではありませんか。そして、この少年のような経験と祝福を味わいましょう。5000人の中でお弁当を持ってきていたのはこの少年だけだったでしょうか?他にもっと豪華なお弁当を持った人がいたかもしれません。パンを食べた群集の何人がこの少年のことを知ったでしょう。たぶん、ほとんど誰も知らなかったでしょう。少年は、ある意味では何の賞賛も受けなかったでしょう。しかし、少年は経験したことのないようなうれしさでいっぱいだったと私は思います。自分の持っているものを差し出し、それが神さまに用いられ人々の必要をも満たしていけたなら、誰にそれを知られなくても、それは、私たちの人生にとって最も素晴らしい生き方、幸せなのです。あなたもそんな人生を生きることができるのです。              M.H