2014年, 2月のブログ

2014年2月23日 

~  美しく麗しく

 冬季オリンピック、ソチ大会で熱い戦いが繰り広げられています。
 私たちは、今マルコの福音書を1章ずつ見ていますが、今日は、少し寄り道をします。
 連日、日本の選手の活躍が話題になっていますが、特に先日行われたジャンプ競技の葛西選手の銀メダルは感動しました。葛西選手にとって7度目のオリンピック、すでに中年の域に差し掛かってのメダル獲得は、私のような中年?男性を大きく刺激するものでした。その葛西選手が、ジャンプの団体でも銅メダルを獲得しました。そしてその時彼は、個人で銀を取った時以上の喜びを露わにしていました。個人戦の銀メダルを手にした時には見せなかった涙ですが、この時ばかりは人目をはばかることもなく大泣きをしている姿がとても印象的でした。その時のコメントです。「択や大貴の気持ちを考えると涙が止まらなくて。礼留飛も人一倍努力していて悔しさを知っていた。後輩たちにメダルを取らせてあげたかった」そしてまた「僕がメダルを取った時、自分のことのように喜んでくれた。一緒に戦ってメダルを取るならこいつらだと思っていた。リレハンメルのメダルとは全然、喜びが違う。最高の五輪になった」いっしょにひとつの目標に向かって世代の違う人たちが(このティームのメンバーの中には葛西選手が初めてオリンピックに出たときにはまだ生まれていなかった選手もいたようです。)心を合わせて戦う姿は美しく麗しいものですね。

 さて、今日は第4日曜日ということで、今年から毎月第4日曜日は、いつものように礼拝を持って、その後にいっしょに心を合わせて祈り、主を慕い求めるそんな時を持ちます。今まで第1日曜日に礼拝の後リニューアルの時をもっていましたが、それをさらにリニューアルして、「ワンハート」という名前で新たにスタートします。それはどのようなものかというと、二つ

の事があります。まず一つは、わたしたちが主にある家族として、いっしょに心を合わせて教会の必要を祈ります。そしてもう一つは、ひとりひとりが主と交わり主を慕い求めるときを形にとらわれることなく持つというものです。あるときには、CDで賛美を流して、その中で主を求めることもあるし、いっしょに賛美して主を求めることもありますが、主を求めるということだけに焦点をあてます。心から主を慕い求めること、それだけがルールです。そして特別に時間の制限も設けません。会堂の中で自由に主を慕い求め、主との交わりを楽しみましょう。もちろん、いつものようにビストロも用意されています。今までのリニューアルの時のように自由にセルフで食事をとって、交わりを楽しんでください。

閑話休題
 主は私たちが、ひとつとなるところに祝福を与えて下さるお方です。そしてイエスさまは、私たちがひとつとなることを願い祈られました。それは、父なる神さまとイエスさまの関係のようにひとつとなることです。その一致は組織としてや意見の一致以上のものです。私たちジーザスファミリーも愛によって、信仰によって、霊的に一致しようではありませんか。世代を超えて、立場を越えて、今、ひとつとなって主を求めるときです。主は、そのように願って下さっているのです。そして、そうなることを期待して下さっているのです。ひとつとなって、さらに深く、心から主を慕い求めていきましょう。そこに主は祝福を注いでくださるのです。そして、ひとつとなって主を慕い求めている、そんな姿こそはメダルを獲得する以上に美しく麗しいものなのです。                      M.H   
   
  


2014年2月16日 

~本質は

 パリサイ人にとっては、安息日をどのように守るかということが最も大切なことでした。そして彼らの心の中はイエスさまを訴えること、そのためにイエスさまのされることを注意深く見ていたのです。しかし、イエスさまは、手の萎えた人をみんなの真ん中に立たせて、彼らに質問されました。安息日は何のためにあるのかと。
 パリサイ人たちは、安息日の守り方については、とても詳しかったしとても熱心だったでしょう。でもイエスさまの質問に対しての答えを持ち合わせてはいませんでした。彼らは、答えられなかったばかりではなく、そのことを通してイエスさまに対する憎悪と反発が増し加わったのです。
 自分たちの立場や自分たちの考え方にとらわれるあまり、本当に大切なことに心を開くことが出来なかったのです。それは、ある意味では自分の立場を守るためと言いかえることが出来るでしょう。
 私たちは、いかがでしょうか。それが、何のためであるのかをわきに置いて自分の立場や考え方にとらわれるあまりに、その本質を見失ってしまっていたり、それがわかっていながらも、かたくなになって自分を守ろうとしてしまい目をそらしてしまう、そんなことってありませんか。
 私たちは、謙虚に真理に耳を開いて、それを受け入れられるやわらかいハートを持ちたいものです。
 パリサイ人たちは、イエスさまのなされた奇蹟・・手の萎えた人をいやしたこと・・を見て真理を悟ることをせず、逆にイエスさまからの挑戦かのように受け取ったのかもしれませんが、ついには、イエスさまを殺害する計画まで立てはじめてしまいました。
 私たちも、時々自分が受け入れられないそんなことを主から示されたとき、それが確かに真理であり、導きであると感じながらもその思いに反発し、それを葬り去ろうとしてしまうこと

はないですか、イエスさまを葬ろうと考えたパリサイ人たちの様に。
 イエスさまは、安息日に人をいやす事によって人の命の救いを求めていました。パリサイ人たちはそのことによってイエスさまを殺すことを求めていたのです。私たちにとって何が最も大切なのでしょうか。人の救いほど大切なことはないのです。人が主と出会い主を信じ救われ、主をほめたたえる弟子となること、そのために先に救われ弟子とされた私たちは、福音を述べ伝えるのです。
 自分の立場、自分の計画、自分の目的のために、私たちは主の弟子となったのではなく、主が、私たちを選び、私たちを弟子としてくださったのです。そこには主のご計画があるのです。ひとりひとりが主のご計画を知り謙遜に仕える者として主に従っていきましょう。             M.H

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。  ヨハネ15:16

~復習:*今日のメッセージであなたの心に一番残ったことはなん
ですか。
*習慣や形式にとらわれて、その本質からはずれ惰性で何
かを行ってはいませんか
*退くべきなのに退けずに、問題が大きくなってしまってい
るようなことはないですか
*謙虚に真理に耳を開けるように。やわらかい
ハートが養われるように祈りましょう。
予習:マルコ3章を読みましょう。
 


2014年2月9日 

~天井が落ちてきた

 もし集会の最中に、しかも聖霊さまの豊かな臨在を誰もが感じて静かに主を待ち望んでいるような時にいきなり座席の真ん中のあたりで、誰かが大きな声で、今日のビストロのメニューについて、議論を始めたら、、、いま風に言えばKY(空気が読めない)ですよね、もう少し空気を読んでよ、非常識だと批判されてしまうのではないでしょうか。
  集会の最中に異音がそして天井が崩れてきたら、そこから人がつり降ろされてきたら、、、やっぱりこれも、かなりの非常識ですよね。皆さんがもしそこに居合わせていたら、イエスさまの語られている言葉に熱心に耳を傾けているそんな時に、それが起こって、それを目の当たりにしたら、どのような感想を持ち、行動を起こすでしょうか。私だったら、そんな行為をする人たちのことを迷惑に感じるだろうし、注意もするとおもいます。確かにこの行為は非常識です。決してほめられた行いではないのです。しかしイエス様はその行為のうちにある信仰を見られました。ただ単に非常識な行為を良しとされたわけではないのです。私たちにも時には常識を破ってでも信仰のゆえに非常識なことを行わなければならないこともあるのです。
  この4人の人たちは、中風の友人を愛していたし、哀れみのハートを持って、なんとしてでも良くなってもらいたいという強い願いを持っていたのです。そして、イエスさまならきっと、この友人を直してくださると強い確信を持って、こんな行動を起こしたのです。まさに私たちの常識の及ぶ範囲ではないような行動を。そしてそんな行動

によって、中風の男が癒されたのです。男を運んできた人たちは、ただ信仰のゆえに必死にことを行ったのです。
  そして、その行為に答えてイエスさまがなされたことは、有る意味でそこにいた律法学者や他の人たちを戸惑わせることでした、なぜならイエス様ご自身が罪を許す権威を持っていることつまり神であると宣言されたのです。それは彼らの固定観念、長年積み上げてきた染みついた常識というものを打ち破るものでした。信仰が常識という壁(天井)を打ち砕いたのです。単なる非常識は批判されるだけですが、信仰による非常識は、今までの常識を打ち砕くのです。私たちの心の天井や、壁を打ち破り更に大きな世界へと引き上げるのです。
  今日、マルコ2章を通して私たちの常識を信仰によってうちくだくことをいっしょにかんがえてみましょう。  M.H


2014年2月2日 

~神の国が

 今日から2月です。ひと月があっという間に過ぎ去りましたが、今年立てた計画や目標は順調に進んでいるでしょうか。今年こそは聖書通読をと計画された方もいらっしゃるのではないでしょうか?皆さん聖書を毎日に読んでいますよね。えっ、読んでない!
 
 今週から、マルコの福音書をいっしょに読んでいきたいと思います。今日は1章を見てみましょう。その導入として。

著者;著者はマルコで、彼は、バルナバという、初代教会の指導的役割を果たした人の親戚でした。マルコは、バルナバとパウロと一緒に伝道旅行をしました。ペテロは、マルコにこの本のため、たくさんの情報を伝えました。14:51,52で「ある青年」と言われているのは、マルコ自身のことのようです。
書名;マルコは、この福音書を書いた男の人の名前です。マルコはおそらく、ローマにいる読者のためにこれを書いたと思われます。彼らは、予言の成就ということよりも、イエスが何を行われたかに関心を抱いていました。短い福音書なので、出来事がとても速く進みます。マルコは、イエスを「しもべ」として見ています。
鍵の聖句;人の子が来たのも、仕えられるためにではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(10:45)

 

 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」1章15節
 とイエスさまは、その公の生涯の最初に語られました。
今日は、神の国について少し考えて見ましょう。
 神の国、それは領土やそこに住む領民を指す具体的に意味ではなく、支配権を意味しています。そしてそれは、もう、すでにこの世界に到来しているのです。(ルカ11:20)私たちは、そんな神の国を生きているものなのです。皆さんの価値観はいかがでしょうか。神の国に対して目が開かれ、その神の国を生きるものとなりたいものです。そして、この世界に神の国を証していきましょう。