2014年, 3月のブログ

2014年3月30日 

~恵みの中を

 エルサレムから少し離れた地方で、最近、不思議なわざや、奇跡をなして、人々から注目されているイエスという方がいるから少し様子を見に行ってきたらと、命令されてか、自分たちで自発的に来たのかは分かりませんが、エルサレムから律法学者たちが来て、イエスさまの回りに集まって、イエスさまや弟子たちの行動を見ていました。
 たぶん、イエスさまの失敗や間違いを見つけ出してやろう、そして、何とかつけ入る隙を見出してイエスさまを、やり込めようというそんな目をもって・・・そして、弟子たちが古いしきたりや慣習にとらわれることなく自由にふるまっていることを批判し始めました。
 私たちも、人を見て何かその人たちが自分と変わったことをしていたり、自分たちがずっと守ってきた習慣(礼拝や賛美のしかたなど)や、今まで行ってきたよく考えたら何の根拠のないそのようなことを、自分たちと同じようにやっていない人たちを見て、批判し、攻撃したりしてしまっているようなことはないでしょうか。パリサイ人と律法学者たちは、もっともらしく弟子たちのしていることに対してイエスさまを批判しました。そしてイエスさまから強烈に悟らされます。(悟ったかどうかは別として)
 私たちも人のあれこれを、その本質を考えることなくうわべの事だけを見て批判したり、攻撃したくはないですよね。それよりも、自分たち自身が行っているそのひとつひとつを、いつもしっかりと何のためか、なぜそれをしているのか、をチェックして常に神さまの御心を行いたいものです。
 同じように、少し古い考え、今までの慣習にとらわれていたエルサレムの教会に、アンテオケで新しいこと、今までにない事が行われているという知らせが聞こえてきて、その視察に行ったバルナバは、そこで神の恵みを見て喜びました。(使徒の働き11章)パリサイ人と律法学者たちは、イエスさまを見

て、言い変えたら神さまの恵みを見て、うわべの行いの自分たちとの違いを批判したのに対して、バルナバはそれを喜び、そのまま主にとどまるようにと励ましました。私たちも行いや現象を見るときその中に、神の恵みを見るものでありたいと思いませんか。簡単に表に出ている人の行動を批判するものではなく、その本質が何かを見極めてそこにある神の恵みを見出しそれを喜ぶものでありたいと思います。
 バルナバは恵みを知っていたし、自分自身が恵みの中を歩んでいたのではないでしょうか。だからこそ神さまがなされていることのそのただ中に働いている恵みを見出せたのではないでしょうか。一方、律法学者やパリサイ人は、言い伝えや古い習慣、そしてそれらを守ることに表面的には明るかったのです。確かに、しきたりや儀式については、何でもよく知っている、でも残念ながら、恵みを分かってはいませんでした。自分たちの行いがすべてであり律法を守ることで、きよくなれると考えていたのです。
 私たちも時に、自分の行いが第一になってしまって、イエスさまの恵みを忘れてしまってはいませんか。私たちは、いつも恵みの中に立ちたいものです。恵みの中からキリストのかおりを放つものなのです。そこに立っていなかったら、私たちも、律法学者やパリサイ人のように素晴らしい神さまの恵みを、人の行いを批判し攻撃する道具にかえてしまうのです。いつも恵みの中に立っているものでありましょう。         M.H

~復習:*今日のメッセージであなたの心に一番響いたこと
はなんですか
*根拠のない古いしきたりや習慣にとらわれていることは
ありませんか
*いつの間にか礼拝や賛美が形骸化してしまってはいま
せんか
*きよい心とゆるぎない霊が新しくされるように祈りましょう
予習:*マルコ8章を読みましょう
 


2014年3月23日 

~ 離れずに

 2匹の魚と5つのパンで、男だけで5000人もの人々の空腹を満たされた方。荒れ狂う湖の上を歩いておられた方。バプテスマのヨハネがよみがえったのだと言われた方。昔の預言者の中の一人のような預言者だ。とも、エリヤだとも言われた方。
 そして、自分のことをよく知っているはずの郷里の人たちから、大工ではありませんかと驚かれ、いったい何でしょうと言われた方、イエスさま。
 私たちは、今年アガペ研修会で「イエスを離れて何もできません。何もしません。」と告白して、宣言しました。覚えていますよね。そのように歩んでいますよね。私たちが離れて何もできないイエスさまって、どのようなお方なのでしょうか。
 私たちは、どんなイエスさまから目を離さず、離れずとどまろうとしているのでしょうか。イエスさまのことを知っていなかったら、そのお方から離れないでいることは難しいです。イエスさまのことを正しく知らなかったら、何にとどまっていればいいのかわからなくなってしまいます。
 郷里の人たちは、イエスさまの素晴らしい教えや、その行われる奇跡の本質、何を教えられ、何のための軌跡であるのかを追及することより、その知恵や力をどこから得たのかというところに関心があり、そこに注目してしまいました。イエスさまを知っているはずの人たちが本当のイエスさまを理解できず焦点がずれてしまっていました。私たちは、どんなイエスさまを見ているのでしょうか。どのようなイエスさまを追及しているのでしょうか。
 2月から、私たちは、毎週マルコの福音書をいっしょに見てきています。そして、隔週の午後の学びでは、イエスさまのことより深く考え学んできています。
 

 今日もマルコの6章を通してイエスさまをもっと知っていきましょう。
 私たちは、生活の中で恐怖や怖れを感じるそんなときがあるものです。そんなとき、私たちは何に恐れを感じているのでしょうか。その多くは情報がない事にではないでしょうか、目の前で何が起こっているのかそれを正しく知る情報がないためにおびえたり、恐れたりしてしまうことはよくあることです。 
 同じようなことは、イエスさまに従って歩んでいく中で私たちの信仰にも言えるのではないでしょうか。嵐の中で弟子たちは、おびえて、恐れを感じてしまいました。嵐にではなく、なかなか前に進まないボートにでもなく、湖の上を歩いてこられたイエスさまにです。イエスさまを見て驚き恐れてしまったのです。
 イエスさまが本当にどのようなお方であるのかということをしっかりわかっていたなら、そこまで驚くことはなかったのです。彼らはイエスさまの事を悟らず、心が閉ざされていたのです。私たちはイエスさまをどのように知っているのでしょうか。日々主を慕い求めて、本当のイエスさまに目をとめていきましょう。そしてそのイエスさまから目を離さず、離れず日々前進して行きましょう。               M.H

~復習:*今日のメッセージであなたの心に一番響いたこと
はなんですか
*あなたはどのような時にイエスさまではなく、自分を
頼ってしまうでしょうか?
*イエスさまについて今日知ったことをおもいめぐらし
ましょう。
予習:*マルコ7章を読みましょう
 


2014年3月16日 

~ どんなに大きなこと

「あなたは、ある会社のセールスマンです。この黒板消しを、売り込んでください。」これは私がずっと以前、話し方教室に少しだけ通っていた時に実際に出された課題でした。みんな頭を絞ってどのように説明しようか、何をアッピールしようかと、考えました。そして各グループで発表し合いました。みんなそれぞれに、その商品のユニークさを説明したり、商品以外の付加価値を勝手に作り上げて工夫して説明したり、ことばたくみに商品以外の話で人を引きつけたりと、さすが話し方教室に通って来ている人たちと思わされたものです。しばらくグループでそのような時を持って、そのあと講師の方が一番いい方法はと、みんなを前にして見本を示されました。それは、実際にその黒板消しを持ってみんなに見せて、それからそれを、ひとりひとりに回してさあ、見て下さいと言われたのです。ずるい!話し方教室なのに。と。思いました。なるほど、百聞は一見に如かず。です。確かに商品がどのようなものであるのかはよくわかりました。
  では、私たちがこの世界に紹介する、商品が、私たちの信仰だったらどうでしょう。救われた喜び、解放された感動だったら。
  イエスさまは、「あなたの家、あなたの家族のところへ帰り、主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」と汚れた霊から解放してあげた男にいわれました。イエスさまのお供をしたいというのをお許しにならずに。私たち、ひとりひとりにも、この男に語られたように主から語っておられるのではないでしょうか。あなたも、どれほど大きなことを受け、どんなにあわれんで下さったかを家に、家族のところへ帰り(自分のオイコスのなかで)知らせるように。そして、それを言いかえれば、主はそこは、あなただけに委ねたところ、その人々はあなたに委ねた

人々だと言って下さっているのではないでしょうか。あなた自身がユニークなサンプルとなって見本となって、そこに届いて行って欲しいと願っておられるのです。
 私たちが、人々に知らせること、伝えることはなんでしょう。私たちはどんな見本であり、何のサンプルなのでしょう。私たちが、見せるべき姿とは、品行方正に、いい子になって歩んでいる姿でしょうか、一生懸命いいことをしようとしている姿なのでしょうか。いいえ、私たちは、罪人であったのに大きなあわれみによって、罪が赦されたこと、こんな、私も罪の赦しを受けたという大きなことを、ひとりひとり、その生き方を通してこの世界の人々に伝えていかなければならないのです。解放された男は、デカポリスという地方に帰って行って、主のなされた大きなことを言い広めました。その地方で主の証となったのです。私たちすべてのものが墓場で、吠えたり、鎖を引きちぎっていてそこから解放されたわけではありませんし、大きな病がいやされたわけでもありません。死からよみがえらされたわけでもありません。しかし、私たちイエスさまを信じているものは、罪の赦しを受けているのです。完全な赦しをいただき救われたのです。このことは、どんなあわれみでしょうか。どれほど大きなことでしょうか。            M.H

~復習:*今日のメッセージであなたの心に一番響いたこと
はなんですか
*あなたに主がなしてくださった、どんなに大きなこ
と、どんなにあわれんでくださったかを思いめぐらし
てみましょう。
*あなたでなければどんなにキリストが素晴らしい
かを伝えることが出来ない人はいますか。それは
誰ですか。その人を覚えて祈りましょう。
予習:*マルコ6章を読みましょう
 


2014年3月9日 

~福音って何でしょう

 多くの人は地の果てまで宣教ツアーに行っても、福音をはっきりつかんでいないのです。救いのあかしを頼まれたら、かなりあやふやなことを言います。でも、私たちはどうでしょう。あえて、皆さまに聞いてみます。福音って、何でしょう。どのようにしてクリスチャンになりますか。
 霊的な「武具」~大盾、かぶと、剣~ は比喩的な表現ですが、私たちが霊的な戦いにおかれているということは決して、比喩的ではありません。実際に、悪魔がずる賢い策略をもって、私たちの救いと召命を奪うように惑わそうとしています。攻撃をうまく退けていない、信仰を失っている友人を私たちはみんな持っています。ですから、私たちがそうならないように、「武具」をまず理解してから、次に着けていきたいのです。
 サタンの一番の武器は惑わしですので、真理を見分けることは非常に大切です。惑わされないように。だから、エペソ6.14の一番目の、真理の帯について昼からの聖書研究会で学んでいます。その次の武具は正義の胸当てです。でも、正義の胸当ては大きい課題だし、一回の学びでは不十分ですので、今日置いておいて、3番目の武具を取り上げたいのです。

足には平和の福音の備えをはきなさい
 
 どのように理解したらいいのでしょうか。私自身はいつも以下のように祈っています。
 *今日、どんなことが言われても、つまずかないよう
  に、転ばないように、しっかり立てるように、主よ、助け
  

   てください。(足や靴のことですから)
 *蛇やさそり(悪霊のこと)を踏みつけ、敵のあらゆる力
   に打ち勝つ権威を授けてくださってありがとう(ルカ
   10.19)。私は勝利者です。
 *平和の神は、すみやかに、キリストの足の下に、そし
   て、私の足の下にサタンを踏み砕いてくださることを
   感謝します(エペソ1.22、ローマ16.20)。悪魔は
   私の上にあるのではなく、足の下にあります。私は
   イエスとともに、天のところに座らせていただいてい
   ます。
 *平和の福音の備え…今日、福音を表現する機会が
   あるのでしょうか。そのために備えられますように。
 
 最近、平和の福音の備えの必要性をよく考えさせられています。私たちの戦う目的はただ退かないことではなく、前進することです。つまり、自分の救いを失わないだけではなく、他の人が救われるように導くことです。福音を伝えなければなりません。そのために、当たり前ですが、まず福音を理解しなくてはいけません。
 皆さまには初歩的なことですが、福音の不可欠な要素を少し復習すればいいと思います。足には平和の福音の備えをはくためです。
                             G.F


2014年3月2日 

~どんな地

 井戸のほとりに腰を下して、イエスさまが旅で疲れた体を休めておられるところに、ひとりのサマリヤの女性が水をくみにやってきました。その女の人にイエスさまは水を飲ませて欲しいと言われました。女の人は面食らいました。ユダヤ人のイエスさまが、なんで私のようなものと口を聞くの、水を求めるなんて!イエスさまは、その女の人と二言三言の会話をしました。そして、イエスさまがその女の人に生ける水を差し出しました。すかさず、その女の人は、その水をくださいと言いました。その水の本当の意味も分からずにただ自分にとって都合がいいから。イエスさまは、突然「あなたの夫をここに連れてきなさい」と言われました。それは、女の人の生涯の最も感じやすいところにヒットしました。すると、女の人の心に多事多端が生まれてきました。そしてイエスさまに質問します。「礼拝すべき場所はエルサレムなのか、この山なのか」と。イエスさまは、そのことでの論争を避けるように、しかし、その女の人にとって最も必要なことを語られます。「神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければならない。」すると、女の人の心の中に蒔かれていた良い種が芽を出しました。そして、イエスさまを信じて、すぐに実を結びだしたのです。女の人の心が耕され良い地になったのです。
 これは、ヨハネの福音書の4章の話でした。私たちは、確か今マルコの福音書を見ていたんですよね。今日はマルコの4章のはずですが・・・? マルコとヨハネを間違えたわけではありません。
 イエスさまは、マルコ4章で4つのたとえを用いて話されています。そして、種を用いた、たとえが3つも出てきています。そしてまた、聞きなさいとも語っておられます。
 種は実をならせるものです。植物で種に依存していない植物はありません。神さまは小さな種の中に、その植物が持つすべての情報を組み込まれました。小さな種には、すごいパ

ワーが隠されているのです。
イエスさまは、み言葉を種にたとえて、また神の御国を種にたとえて話されました。確かに、み言葉には大きな力があり、いのちがそこにはあるのです。
 種まきのたとえを通して、種の蒔かれる土壌、つまり私たちの心の態度についてイエスさまは語られました。道端におちた種、岩地に蒔かれた種、茨や雑草にふさがれて成長できない種、そして良い地に蒔かれ実を結ぶ種です。このたとえで、私たちの心を耕す必要とまた心の耕された地にみ言葉の種をまくことを学ばされます。
 「耳のあるものは聞きなさい」マタイ13:9「聞いていることに注意しなさい」マルコ4:24「聞き方に注意しなさい」ルカ8:18と語っておられます。聞くことに注意しなさい。何を聞くかに注意しなさい。どのように聞くかに注意しなさい」と。私たちはみ言葉をどのように聞いているのでしょうか。正しい態度で聞いていますか。                         M.H  
  
  ~復習:
*今日のメッセージで心に一番響いたことは何ですか *蒔かれた種が芽を出し成長するためには何が必要
でしょうか
*「聞くことに注意しなさい。何を聞くかに注意しなさい。ど のように聞くかに注意しなさい。」を思いめぐらしてみましょう
*あなたの心の土壌の状態はどうですか
*あなたの中に蒔かれた種が成長しなかった経験が
ありますか、その時のあなたの信仰の日々はどのようなも
のでしたか
*あなたは、人と接するときにイエスさまのようにその人の
(土壌)の状態を気にしていますか
予習:*マルコ5章を読みましょう