2014年, 5月のブログ

2014年5月25日 

~ 最強の戒め

 私たちジーザス・ファミリーは「三つの愛に生きる」の理念を土台としています。三つの愛とは、主を愛すること、隣人を愛することそして互いに愛することこの三つの事です。このことは、イエスさまが、すべての命令の中で最も大切なものだと言われたことです。

 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」マルコ12:29~31

 イエスさまは、マルコの福音書の中でこのように言われました。そしてヨハネの福音書の中でもとても大切な一つの戒めを与えて下さいました。

 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。ヨハネ13:34

 だから、私たちもこの三つの命令を大切にし、それを私たちの信仰の土台としているのです。
 私たちの信仰にとって、何が最も優先されるべきであるのかをこの命令は、はっきりとさせてくれます。そして、私たちは、私たちを愛し惜しみなく、その愛を子どもである私たちに注いでくださる天のお父さん、そのお父さんを喜ばせるためには何をしたらいいのか、天のお父さんは、何を私たちに望んでおられるのかということを聞いて従っていきたいのです。

 あなたの神である主を愛せよ。では、どのようにして神さまを愛するのでしょうか。

 「神さまを愛する」ということは、抽象的であいまいに感じます。しかし、これこそが、神さまが私たちに一番望んでおられることであり、私たちが、しなければならないことなのです。私たちは、聖書を読まなければ、祈らなければ、教会に行かなければや、これやあれをやめなければということに思いを奪われているのではないでしょうか。そして、自分がそのような思いであるために、人がそのようでなければならないと思い、自分がお世話している人にまでそのようなことを求めてしまったりしていることはないですか。イエスさまは、最も大切なことは神を愛することだと言われたのです。では、どのように私たちは具体的に神さまを愛するのでしょうか。いっしょに考えて見ましょう。私たちが行うすべての事を礼拝として主に捧げているでしょうか。そうすることは、神を愛することではないでしょうか。愛は動機です。心の中のものです。私たちの行動はどのような動機を持ってでも行うことが出来るのです。皆さん私たちの行動のひとつひとつの動機はどのようなものでしょうか、そんな行動のひとつひとつを私たちは、主に礼拝として捧げているでしょうか、礼拝として行動しているのでしょうか。いつも主といっしょに行動しているのでしょうか、すべての領域に主を歓迎していますか、主に信頼し主に頼っているのでしょうか。そのように生きることこそが主を愛することなのです。   M.H

~復習:*今日のメッセージであなたの心に一番残ったこと
はなんですか。
*主を愛することを自分の生活に当てはめて考えて
見ましょう、あなたの行動の動機は・・・
*あなたはカイザルに返すべきものをしっかりとカイザ
ルに返していますか
*三つの愛に生きることを信仰の土台にしましょう
予習:マルコ13章を読みましょう。
 


2014年5月18日 

~ 葉だけ茂っていませんか

 クリスチャンを見ていていやになることはありませんか?
体裁だけ繕って、恰好ばかりで、いかにも私はクリスチャンって感じで・・・かおり放ってるんやろか、実も結んでないよなって。いやいや、人や教会を批判しているのではありません。自分自身への戒めでもあるのです。いつしか自分自身も含めてクリスチャンや教会が葉だけは、立派に生い茂っているけど、決して実をつけていないそんな、いちじくの木のようで、、、
 イエスさまが、エルサレムに預言の通り、小さなロバに乗って入城してきました。
 エルサレムの住民たちは、大歓迎でイエスさまを迎え入れました。自分たちを解放してくれるメシヤをまるで王が来られたように大熱狂でお迎えしたのです。
 マルチン・ルターは長年夢見ていたローマに行ってそこで世俗化された有様に失望しました。イエスさまがエルサレムに入ってこられて、神殿と街の様子を見られどのように思われたのでしょうか。
 その翌日イエスさまは、いちじくの木を枯らしてしまわれました。私たちは自分で一生懸命に葉を茂らせ、りっぱな木に見せようと必死になっていることってありませんか。まるでいちじくの木のように。 そして、気が付いたら本当に大切なことを忘れてしまっているのではないでしょうか。
 イエスさまが見てまわられた、エルサレムの町は腐敗していたと言えるのではないでしょうか。見た目には立派な宗教家たちがいかにもそれらしく振舞っているけどそこには、愛や憐れみ、本当の信仰がみられない、そのような状況だったのではないでしょうか。
 また、すべての民の祈りの家であるはずの宮は、まるで強

盗の巣のような有様で、そこでも、宗教指導者たちはそれらしく、きっと立派に?まるで葉だけ生い茂り、実のない、いちじくのように。
 私たちは、いかがでしょうか、長年のクリスチャンとしての歩みの中でいつしか、福音の本質である恵みをそして愛やあわれみをないがしろにしてしまい、見てくれだけは立派なクリスチャンのようになってしまってはいませんか、そんな、自分が少しいやになってしまいますよね。
 イエスさまは、それから宮に入って行って、とても、柔和なイエスさまとは思えないような行動をとられました。鞭をふるい、宮の中で売り買いしている人たちを追い出し、両替人の台や腰掛を倒して回られたのです。
 宮は、神さまのみ心からはるかにかけ離れた用いられ方をしていました。すべての民の祈りの家とは全く別のものとなってしまっていたのです。私たち、クリスチャンひとりひとりは聖霊の宮です。また教会は宮なのです。その宮は、大丈夫でしょうか。イエスさまが今、その宮を見て回られたら・・・
                               M.H


2014年5月11日 

~ 何をしてほしいのか

 今日は母の日です。お母さん方子育て本当にご苦労様です。また、私たちジーザス・ファミリーのうるわしく、美しく、力強い、お母さん方いつもありがとうございます。この家族をいつも影に日向に支えて下さっているそんな教会のお母さん方、ありがとうございます。教会にとって、この家族にとってお母さん方の存在は大きな、大きな支えです。心から感謝を捧げます
 家庭においても、教会においても、お母さんたちの働きは決して小さなものではありません。と、いうか私たちクリスチャンひとりひとりの存在はとてつもなく大きなものです。天地をおつくりになられた神さまが、私たちひとりひとりをそしてこの家族を覚えていてくださるのですから。そんな神さまから目を離さずに、ひとりひとりそして家族として、神さまに従っていきましょう。

 私たちは、今マルコの福音書をいっしょに見てきています。
 今日は10章です。イエスさまは、「私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」といってきた弟子たちに、そして道端にすわっていた、盲人の乞食に「何をしてほしいのか」とお言葉をかけられました。そこで弟子たちは、自分たちへの報いを求め、盲人は目が見えるようになることを求めました。
 皆さんは今、イエスさまが「何をしてほしいのか」と声をかけて下さったら、何を求めるのでしょうか。また、イエスさまがそのように声をかけて下さるほどに飢え渇きをもって何かを求めているのでしょうか。
 求めた結果、弟子たちの願いは、かなえられなかったばかりか、ほかの10人の反感までもを買ってしまいました。

盲人の乞食は、願った通り目が見えるようになり、イエスの行かれるところについて行きました。あなたは何を願っているのでしょうか。
 イエスさまは、盲人に「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と語られました。皆さんは願っていることに、イエスさまがそう言って下さるまでの信仰があるのでしょうか。なりふり構わず叫んであわれみを乞い、呼ばれたならすぐに、上着を脱ぎ捨て立ち上がって従った、そんな信仰です。私たちは持っているのでしょうか。
 10章の中で、金持ちのひとりの人の話が出てきます。彼はすぐに従うことが出来ませんでした。多くの財産をもっていたからです。結局、彼は神さまに全き信頼を置くことが出来なかったのです。皆さんはいかがでしょうか。 神さまに完全に信頼を置いているでしょうか、神さまが呼ばれたらすぐに立ち上がる用意はできていますか。今まで毎日毎日すわっていたとしても。
 イエスさまだと聞いて、叫びながらあわれみを求めているでしょうか。
 「何をしてほしいのか」とイエスさまが、今日皆さんに聞いておられるのではないですか。           M.H

 

~復習:*今日のメッセージであなたの心に一番残ったこと
はなんですか。
*神の国はどのような者のものでしょうか。具体的に
思いめぐらしましょう
*神の国で偉い人はどのような人でしょうか
*自分の奉仕に報いを求めていることはありませんか
予習:マルコ11章を読みましょう。
 


2014年5月4日 

~ IN CHRIST

 エペソという町にパウロが力強く福音を語って、多くの人たちがイエスに従い始めました。「驚くべき奇蹟を行われた」パウロの信仰が話題になったでしょう。とにかく、イエスを心に受け入れていないユダヤ人が悪霊につかれている人に向かって、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみました。しかし、悪霊が返事しました。「自分はイエスを知っているし、パウロを知っている。けれどおまえたちは何者だ。」そして、悪霊につかれた人は彼らに飛びかかって、うち負かしたのです。(使徒19.10-17)
 少し極端な例ですが、私が奉仕の中で、自分の力(頑張ったから)や清さ(お利口さんだから)でやろうとしたら、失敗します。実も油注ぎもないのです。悪魔は私のことばや行いを恐れていません。内側は空っぽでしたら、負けます。しかし、私たちがキリストの中にとどまり、キリストが私たちの中にとどまるなら、実を結ぶことができます。ペテロは足のきかない乞食がいやされた後に、こう言いました。「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたのように、私たちを見つめるのですか」。キリストにあって、力を働かせました。
 キリストにあって、私たちは清くて、力があります。キリストにあって、私たちは悪魔の攻撃を退けるのです。キリストにあって、すべての奉仕をします。なぜなら、キリストにあって、私たちは義人です。イエスの一つの名前は「主

は私たちの正義」です(エレミヤ23.6)。主が義であり、私たちを義にするのです!感動します!主を誉めたてます!
 「キリストにあって」というのは、武具の中の「正義の胸当て」のことです。もう罪人ではありません。悪霊が私たちを見たら、エペソのユダヤ人のように口先のことばを語る者ではなく、キリストを見るのです。
 3週間前に、「下って行く途中」という題でことばを信じる信仰について話しました。アブラハムが自分について語られたことばを素直に信じたからこそ、義人と定義されました。目で見えないものを有るもののようにお呼びになる方を信じました。その結果、神さまが彼の罪を見ることを止めて、彼を清めて、義人として見ることにしました。
 今日、ことばを信じる信仰を「キリストにある」私たちの状態に当てはめていきましょう。キリストにある、キリストにとどまる、キリストの中に、キリストにつく、キリストとともに、それぞれの表現は同じことを語っています。私たちが「In Christ」です。それは五感で確認できるものではないのです。みことばがそう語っているから、そのことばの創造的な力を信じます。
 イエスが言いました。「この世を支配する者が来るからです。彼は私に対して何もすることはできません」(ヨハネ14.30)。イエスが清くて、攻めることのできる隙間はありませんでした。キリストにある私たちもそうです。清いのです!隙間はありません。その確信をもって、すべての奉仕に励んでいきましょう。             G.F 


2014年5月1日 

~塩けを保ちなさい
 
 クリスチャンがクリスチャンとして生活するということは、自分のまわりの人々に、キリストの救いがどれほど素晴らしいものか、神の国、それは、たとえ片手を切り落としてでも、片足を切り捨ててでも、目をえぐりだしてでもそこの中に生きていたいそれほどに素晴らしいものであることを現すことです。
 なにか、特別に伝道するということ言っているわけではありません。ただ、毎日の生活の中で、ごく自然に神さまを賛美する歌が唇からあふれだし、神の国を生きている喜びが全身を通してにじみ出てくるような生き方。何か不安なことが起こったとしても、決してあたふたとしたり、落ち込んだりするのではなく、とっさに祈り、天のお父さんに信頼するそのような生き方。誰かが落ち込んでいたら、聖書のみ言葉をもってその人を慰め、励ますそんな生き方が出来たらと思います。
 そして、それを見た人たちが「ああ、クリスチャンって本当に素晴らしいな」と思えることが私たちの本当の伝道だと言えるのではないでしょうか。
 私たちの日々の生活の中での行いが証となるのです。それはどんなすぐれた言葉による説得よりも効果があるものだと言えるのではないでしょうか。29日のジーザスまつりのBBQ大会の中にも神の国に生きるものの喜びと神さまの愛が満ち溢れるときとなることを信じます。

 イエスさまは言われました。
 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたが
 

たは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。  マルコ9:50

 塩は食物を腐敗から守ります。みなさんひとりひとりが地の塩として、皆さんなしではだめになってしまう、腐敗してしまう、家族や職場、地域を健全に保っているでしょうか。塩は清めます。皆さんの何げない言葉が人の心を慰め、励まし、清めているでしょうか。塩は味付けのためにかかせません。神さまを信じて神の国を生きることがどんなに素晴らしい味つけられたものであるのかが皆さんの生活を通して、まわりの神さまを知らない人々に語りかけているでしょうか。そのように生きたいものです。
 そのためには、私たちが塩けをなくしてしまわないように。私たち自身が自分に厳しく厳格を持ちながら(塩けを保ちながら)生きなければならないのです。塩けを保っていれば、私たちはどこにでも浸透していくものなのです。そしてその場を腐敗から防ぎ、神の国の味付けにかえていくことが出来るのです。             M.H  

~復習:*今日のメッセージであなたの心に一番響い
たことはなんですか
*あなた自身は、家族、職場、地域の中にどの
ように浸透していますか
*あなたの切り捨てなければならない手、足、
目となっているようなことはありませんか
*塩気を保ちながら、たがいに和合して暮らすこ
とについておもいめぐらしましょう。
予習:*マルコ10章を読みましょう