2014年, 9月のブログ

2014年9月28日 

~ もうすでに

 仕事から帰ってきたお父さんが、大急ぎでテレビのスイッチを入れました。今日は、サッカーの大事な試合がテレビ放送されます。お父さんは、テレビで観戦することを朝から楽しみにしていました。ちょうど試合が始まったところです。お父さんは、サッカーが大好きでいつもは、衛星生中継で真夜中でも、早朝でも、かかさず試合を見ている子どもたちが、今日はテレビを見ていないことに気付いて、子どもたちに声をかけました。「サッカー始まっているで」「ふーん」子どもたちの返事はやけに、愛想のないものでした。
 お父さんは、夢中になって試合を見ています。自分がひいきにしているティームがピンチの時には大声で何やらわけのわからないことを叫んでいます。逆にチャンスの時には「よし、よし、よし、行け」そしてゴールが決まった瞬間には、全身で喜びを表しています。味方が点を取られたときには、悔しさのあまり、畳をたたいて泣き出さんばかりになっています。
 いつの間にか、ふっとそばに来て、退屈そうに、テレビを見ている子どもたちに気づきました。子どもたちは、試合の流れに一喜一憂し、味方のチャンスには興奮し、ピンチのたびにひやひやしながら、ひいきのティームが勝つようにと必死になって応援しているお父さんを見て、はじめは、何か白けた顔をしていましたが、やがて、そのオーバーなアクションにクスクスと笑い始めました。
 お父さんは言いました。「何を笑っているんだ」子どもたちはますます、笑っています。そこへお母さんがやってきて、子どもたちといっしょに笑い出して言いました。「その試合は、今朝行われた試合でもう結果は分かっているのよ、あなたの応援しているティームが3対2で勝ったのよ」「もう勝負は、ついているんだよ、お父さんの応援しているティームは勝ったんだよ、それなのに必死になって喜んだり、悲しんだり、落ち込んだり、怒ったり変なお父さん」
 私たちクリスチャンは、圧倒的な勝利者なのです。罪と死の支配するところではなく、すでに恵みの下にいるのです。勝敗の決着はついているのです。でも私たちは、残念ながら時々このお父さんのように、ひやひやドキドキそして、いつ失敗するだろう、今日はうまくいった大丈夫。  ああやっぱりこんな自分はダメだ。私にはそんなことできない、あいつよりはちょっとはましか、でも、あの人みたいには、いかんなと、喜んだり不安になったり、これでは勝てないかもと、いつもびくびくとしながら日々を送ってはいませんか。
 私たちは、すでにイエスさまの血潮によって罪から解放され永遠のいのちを与えられ、イエスさまが語られたように、それを豊かに持つものなのです。しかし、はたして、そのように私たちは生きられているかというと、なかなかどうして、そのありたいのに、うまくいかないものです。その原因の一つは、ついつい、私たちが、律法的になってしまうからです。私たちが永遠のいのちを豊かに生きる妨げとなる障害、律法について今日いっしょに考えてみましょう。                   M.H


2014年9月21日 

~ 火矢を消すために

 これらのすべてのもの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。  エペソ6.16
 われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。    マタイ6.13
 この世にいる限り私たちは「天にいる諸々の悪霊」に対して戦っています。神秘的に聞こえますが、事実ですし、それを認めなければ、完全に負けてしまいます。悪魔は私たちを信仰から引き離して、永遠に滅ぼそうとしていす。そのために私たちに火矢を発射します。たとえば…
 この間、ある友人の家族といっしょに食事をしました。普通に話して合っているうちに、私は何かについての意見を述べましたが、それに対してその友だちはきつく怒りました。こちらとしては、ごく普通のことを言いましたし、私よりずっとやさしい家内も横から聞いていてもおかしいことを言ったとは全然思いませんでした。でも友人にとって、私のことばが悪魔に利用されて、火矢になりました。その上に、私が数回謝ったのに、続けて噛みついてきました。そうすると、彼の攻撃は私にとって、また悪魔が利用する火矢となったのです。二人の間に溝ができ、私も数日間落ち込んで、その傷を引きずりました。その火矢は私の心に当たっただけではなく、悪魔がそれをうまくひねて、深く差し込みました。きっと彼の心も同じでしたが、こちらが「やられた」としか思えませんでした。加害者では

なく、被害者と今でも思っています。
 この衝突は私のせいでしたか?友人のせいでしたか?どのようにして、もっと上手にこのような衝突を取り扱うこ
とができるでしょうか?
 違う話ですが、シュラムに住んでいた頃、ある日少しずつ暗くなって、失望感を負ってしまいました。いろいろ否定的に考え込んで、自己憐憫に落ち入ってしまいました。数時間陰気な気持ちでしたが、よく考えると全く失望する根拠がありませんでした。目が覚めると、明らかに、悪魔が放つ火矢だと分かりました。そうしたらどのようにして、それを消すでしょうか?
 私だけではないでしょう。イエスでさえ、十字架に向かって行こうとした時に、親友のペテロの口から彼を妨げる火矢が飛んできました。また、公の奉仕を始める直前に悪魔から集中的な攻撃を受けたのです。
 失望させる!分裂を起こす!主の道からそらす!思いを汚す!主を疑わせる!
 それでは、どのようにして、このような攻撃を退けたらいいのでしょうか。また、どのように備えることができるでしょうか。打ち勝つヒントはありませんか?
                            G.F
                             
       


2014年9月14日 

~ 贖われたもののように

 「クリスチャンは、もう少し贖われたもののように見えてもよいものだ」とニーチェは言いました。
 贖われた人とは、いきいきとして、喜びをもって生きていながら、それが自然で決して無理しているようではないそのような人のことを言っているのでしょう。
 よく、いのちある教会とか、死んでいる教会などといったことを聞きますが、その違いはどのようなところにあるのでしょうか。まさに贖われたもののように見える人々が集められている教会こそが命ある教会なのです。
 では、私たちはどうでしょうか。もし、そのように見えていないとしたら、その問題はどこにあるのでしょうか。神さまの贖いのご計画に不備があったのでしょうか?イエスさまの十字架の血潮に何か不足があって私たちが贖われたものとして人生を送れないのでしょうか?決してそうではありませんよね。問題は私たちにあるのです。私たちの何が問題なのでしょうか?私たちは、イエスさまの十字架の血潮によって完全に罪赦され罪と死の支配の元から恵みが支配するところへと移されました。私たちは律法の下ではなく恵みの下にあるのです。(ローマ6:1)そうでありながら、つまり恵みの下にあるものでありながら、私たちは、その恵みとはどのようなものであるのかということを正しく理解しているのでしょうか。神さまの完全な救いの計画の中で救われてクリ

スチャンとなっていながら、いまだに罪の支配下の中にあって、たまに恵みを受けるように誤解して、ある時は恵みを受け、ある時は恵みがないそんな生活をしているのではないでしょうか。また、恵みは、自分が何かいいことをした時にご褒美のようにもらえるものだと、そうではないと頭では理解していながらも、そのような生き方をしてはいませんか。
 神さまは、罪を犯して、かくれていたアダムとエバにあなたはどこにいるのかと問いかけました。今、私たちに同じ問いかけをなされたら、私たちは、どのように答えるのでしょうか?「私たちは恵みの下にいます。」と答えられるし、そのように答えるべきなのです。すでに、私たちは、イエスさまの十字架の血潮のよって罪赦され、救われているのですから。それなのに、律法の下です。罪と死が支配する世界です。と言ってしまいそうな生活をしてはいませんか?
 ローマ人への手紙を通して、いっしょに赦しについて、救いについて、恵みについて考えて見ましょう。そして罪と死の法則から、いのちと御霊の法則に生きるものへと私たち、ひとりひとりのパラダイムが新しくシフトされ、命にあふれ、恵みにあふれた人生を歩んでいこうではありませんか。完全に贖われたもののように見えるそんな生き方、そのような者が集められた教会でありたいですね。         M.H        


2014年9月7日 

~ 百倍の収穫

 アブラハムは、神からの約束の子イサクに全財産を与えました。そして、自分が生きているうちに他の子どもたちをイサクから遠ざけたのです。自分が生きている間の事だけを考えたのではなく、自分が死んでからもイサクが安泰であるようにと考えたのでしょう。神さまが祝福すると約束されたイサクが祝福を受けやすいようにと父としてなすべきことを成したのです。私たちは、自分の子孫に何を残すのでしょうか、子どもたちが神さまの祝福を受けやすいようにどのように生きるのでしょうか。
 先週イサクが、受けついだ全財産について考えました。イサクは、父アブラハムが築き上げた、神さまとの関係をその信仰を確かに受け継いだのです。アブラハムの形とは違っていても、その日々の自然体の歩みの中で、その信仰は受け継がれていたのです。
 その最も大きなひとつは、従ったら祝福されるということではなかったでしょうか。イサクもアブラハム同様に神さまの声にただ従ったのです。飢饉のときにエジプトへは下って行ってはならないと語られたとき、その言葉に従ってエジプトへは行かずゲラルという地に住みそこで種を蒔いて、その年のうちにその百倍の祝福を見ました。

 イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。 
                         創世記26:12

 神さまは、イサクを祝福して下さったのです。イサクは富み、ますます栄えて非常に裕福になったのです。神さまに従うとき、私たちも同じように祝福を受けるのです。

 では、イサクは、常に完璧だったでしょうか。決してそうではありません。アブラハムもまたそうです。イサクは、自分の保身のために罪を犯しました。(創世記26:7)アブラハムもまた同じ罪を同じ場所で犯しているのです。(創世記20:2)イサクの従順はそんなところまで受け継いでいます?!
 私たちも、完璧ではありません、失敗もするし、自分の保身のために罪を犯してしまうようなこともあるでしょう。しかし、だからと言って祝福されないのではないのです。神さまは、ただ私たちをキリストにあるものとして祝福を約束して下さっているのです。アブラハムのゆえにイサクを祝福されたように。
 来週からはローマ書をいっしょに見たいと思っています。絶対的な神の恵みから目を離さずに、圧倒的な勝利者として生きていこうではありませんか。

                               M.H        

~復習・・・思い巡らしてみましょう
*今日のメッセージであなたの心に一番響いたことは
なんですか
*祝福の秘訣は?
*収穫のために何をしていますか
予習
*ローマ書を読もう