2014年, 10月のブログ

2014年10月26日 

~ 詩篇23篇

 ダビデは、その生涯の中で数多くの詩歌を書きました。ある時は神さまをほめたたえ、ある時は嘆き、悲しみや怒りをその歌の中に表現していますし、神さまから与えられた数々の救いの軌跡を書き記したりしたものもあります。それは、まさにダビデ自身の内面の記録というか心の風景といったものがそこに記されているとでも言えるでしょう。そんな詩編を読んで、私たちは神さまの豊かさ、素晴らしさ、慈しみ深さあわれみの大きさを知ることが出来ます。そして、それを知ることはとても大切なことなのですが、果たしてそれで満足していいのでしょうか。なんとなく詩編を読んで一時的にまた気分的になんかいい感じで終わってしまってはいないでしょうか。ダビデの神さまはすごい!で・・・
 以前にお話ししましたが、ただ単に、読むだけではなく、それがどのような状況で書かれたものなのか、その時ダビデはどんなところを通っていたのか、そこで何が起こっていたのかといった情景や背景を知って読んで見るとまた変わった気づきや励ましに出会うことが出来るのです。そんな風に読んで見ることをお勧めします。
 今日、私たちは詩編23遍ついて考えて見ましょう。
 皆さんよく知っておられる詩編でとても有名な箇所です。すらすらと暗唱できる人もいらっしゃるでしょう。そして、それを読むと神さまの豊かさ、あわれみ、愛といった素晴らしさを感じ知るのです。
 しかし、果たしてそれで終わっていいのでしょうか。ある意味で、この詩編23遍は私たちクリスチャンのクリスチャンたる、その根底に流れるものでなければならない

と言えるのではないでしょうか。この詩編を通してダビデの信仰を見てそこから聖霊さまが語って下さることに期待しましょう。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、
私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 私たちにとって、この詩編は、私たちがクリスチャンとして生きていくうえで、しっかりと心に刻み込んでいなければならないものではないでしょうか。道を歩く時も、寝るときも、起きるときも、これを日々口ずさんでいるなら、そんな風に生きるなら人生は豊のものとなるのではないでしょうか。そのよう生きたいものです。
                                    M.H
                      


2014年10月19日 

~ 受けて流して

 指先を離れた、一枚のコインが、細いレールの上を転がって行って、ケースの中のコインの山の中へと落ちて行きます。そして、そのコインが落ちてきたことによって別のコインが押し出されるようにケースの外へとはじき出されていきます。より多くのコインを勝ち取ることが出来るかを競う、ゲームセンターなどでおなじみのコイン落としゲームです。コインが一枚ケースの中のコインの群れの中へ落ちていくことによって何枚かのコインがケースの外へとはじき出されるのです。ある時、祈っていると、こんなコイン落としゲームの絵を主は私に見せられました。私たちが社会や地域に出て行って、その中に入っていってそこで主の素晴らしいかおりを放つとき人々は主の元へと勝ち取られるのです。コインがゲーム機のケースの中に入っていかなければ、その中のコインに何の変化も見られません。ただケースの外からどれだけ眺めていても、どれだけ大声を張り上げたとしても、決して中にあるコインはケースの外に出てくることはないのです。私たちクリスチャンも同じように教会の中にとどまり、社会や地域を眺めていても、そこから叫んでいても人々を救いへと導き主の元に勝ち取ることはできません。私たちの主戦

場は、社会や地域の中なのです。また、一枚のコインがケースの中に落ちて行って勝ち取れるコインは、それほど多くのものではありませんし、ケースの中のコインの群れに大きな変化はないかもわかりませんが、そこから出てきたコインがすぐにまたケースの中に投入されていくなら、変化が起こり、数多くのコインを勝ち取ることが出来るのです。同じように、救われたクリスチャンが、すぐに社会や地域に主のかおりを放つものとして出て行って伝道し人々を救いへと導くことが出来るのです。そのように自分が受けたことをすぐに流しだしていく、受けて流してはとても重要な鍵ではないでしょうか。恵みを受けて、恵みを知っているものが、恵みにあふれて社会や地域に出ていく時、その恵みがその人を通して流れ出ていき、人々を恵みの主の元へと引き寄せられるのです。
 「主よ私たち(教会)をこの町に与えて下さい」
 私たちが社会を、地域を勝ち取るということは、私たち教会が、その中に与えられていくことであり、私たちが置かれているその地域に伝道するということはまさに、私たちがその地域に出て行ってそこで仕え、主のかぐわしかおりを放つことなのです。                     M.H
                      


2014年10月12日 

~ あなたの原動力は?

 先日新聞の一面を飾ったノーベル賞受賞の記事。日本人の名前が3人あげられていましたね。私がとったのではないけど、なんだか誇らしい気持ちになりました。
 20世紀中には困難といわれていたのに、あきらめず、ときには白い目で見られながら、突き進んだその思いはすごいと思わされました。
 三人の中のお一人の方は、「原動力は怒り」だったと言っておられました。
 確かに怒りはものすごい力を生み出す源の一つになると思います。私たちにも思い当たる節はあるのではないでしょうか?以前聞いたことを思い出しました。あるご夫婦のお話なのですが、普段良く会話をし、二人ともよく話すし、仲が良くていいのですが、家事がなかなかはかどらないそうです。しかし、ひとたび喧嘩をすると口を利かなくなるので、家事が一気にはかどるとのことでした。喧嘩をして怒っているので、なんかいつもと違う力がわいてくるとおっしゃっていました。

こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。                   使徒9:31

 私たち教会は聖霊さまの励ましの中で前進していくものです。言いかえればいつも聖霊さまが私たちを突き動かし、私たちの歩みを支えて下さるものなのです。聖霊さまの導きが皆さんの、日々の生活の原動力となってい

るでしょうか。また、私たちは、励ましを受ける必要があるのです。教会が励まされて前進したように・・・皆さんは、励まされることが好きでしょうか?嫌いな人はいないですよね。私たちはみな励ましが必要です。そして神さまはいつも私たちを励ましてくださっています。
 ダビデは、その子ソロモンに語りました。
「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから――。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。ソロモンに語られた神さまのことばです。
 今、神さまは、私たちにも同じように語って下さっているのです。主に励まされて、私たちは勇敢に生きようではありませんか。

あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

                                 Mrs.M.H

                      


2014年10月5日 

~ スランプもある

 今の今まで絶好調だった、そんなスポーツの一流選手でも、何かのきっかけでときに目も当てられないような、スランプに陥ってしまうことがあります。どんなに燃えるような信仰生活を送っていたとしても、少し否定的に聞こえるかもしれませんが、私たちは時として信仰のスランプというものに陥ってしまうことがあるものです。熱いリバイバル集会や熱心な祈りの集会に参加して、神さまにふれられ一時的に激しく燃やされながらも、何か問題があるといとも簡単に主から離れてしまうことがあります。
 イエスさまが十字架に架けられたとわかったら、弟子たちの中には、さっさとエルサレムから離れていったものたちもいました。エマオへ向かう道の途上にいた弟子たちもそのようなものたちでした。その弟子たちの様子から、主から離れていくそんないくつかの段階を見ることが出来ます。
 今日いっしょにその段階を見ていって自分自身の信仰のチェックをしていきましょう。それとともに、私たちには大切な使命があります。それは、私たちひとりひとりが主の弟子となること。また、主の弟子をつくるということです。私たちひとりひとりは主の弟子として成長しなければならないし、また私たちには、弟子造りという使命があるのです。そんな仕事を成し遂げるためにはまず人を育てなければなりません。そのためには人を正しく理解し、問題に直面した時に人々を正しく導かなければなりません。そのためにも信仰のスランプの段階を知ることは自分自身のためにまた自分がお世話している人の状態を正しく理解するために必要なことなのです。
 

 そして、どうして弟子たちはそのような信仰のスランプに陥ってしまったのか、その原因も考えてみましょう。スランプに陥ってしまう原因は、どこにあるのでしょうか。もちろん人によって様々な原因が考えらますが、今日はこの弟子たちがどうして主から離れていってしまったのかということを見てみましょう。
 弟子たちは、明らかに神さまの御心を求めることよりも、自分自身の希望や願望を優先にしていました。そして、それが主に仕える動機となっていたのではないでしょうか。
 私たちの主に仕える動機はいかがでしょうか。私たちにとって主の御心が、なにより一番になっているでしょうか、それとも、自分の願望や希望が時として優先されてしまってはいないでしょうか。神さまの栄光より人の栄光を願ってしまっていることはないでしょうか。状態の段階や原因を見てそして、その解決策も今日いっしょに考えてみましょう。
 その結果、どうなったのでしょうか。弟子たちは、目が開かれ再び心が燃やされたのです。私たちも今日、さらに目が開かれ、心が燃やされることを期待しましょう。  
                              M.H