2014年, 11月のブログ

2014年11月30日 

~ 神の国Ⅱ

神の国について、学んでいます。
「神の国」はイエスさまの宣教のテーマです。先週、神の国とは何かということを考えました。
神の国は、国境線が引かれる領土といったものではなく、神の支配、神の主権、支配する権威のことです。そこには、神さまのご性質が実現しているのです。恵み溢れる神さまの支配があり、神の愛、義、全能の力が余すことなくあらわれていて神の栄光が曇りなく光り輝いているところです。
そして、現在、キリストがご臨在されるところには、天の御国が来ているのです。主の全能の力による支配、平和、きよさ、愛、義、豊かさ、主との直接的な交わりが地上に来ているのです。そのような神の支配を私たちは聖霊によって現実に体験できるのです。
教会には、神の国が来ているのです。神の支配は来ているのです。しかし、私たちは不完全だからまだ完全なその神の国を味わってはいません。神の国イコール教会ではありません。でも神の国は教会以外にはありません。だからこそ、私たちは、この神の国の祝福を享受し、神の国の拡大のために働くのです。

今日、神の国について、いっしょに考えて見ましょう。
神の国が、父なる神さま、イエスさま、聖霊さま、そして使徒たちにとってどのようなものであったのでしょう。まさに神の国は、父なる神さまの歴史的テーマであり、神さまの歴史における究極の目的は神の国の再興であることがわかります。また、イエスさまの宣教のメッセージを見てみると、それは宣教の初めから昇天に至るまでその中心は神の国であったことがわかります。そして聖霊さまが教会を用いて神の力をあらわし、神の国を拡大されるのです。使徒たちもまた、神の国に入ることを目的としてメッセージを語っています。そして書簡でも神の国を語っています。ヨハネは黙示録で神の国の完成を預言しているのです。
このように、神の国ということを意識し、そこに焦点を合わせていく時、私たちの、そのライフスタイルが変わっていくのではないでしょうか。今日もいっしょに、神さまのテーマともいえる、神の国ということについて、さらに私たちの目が開かれるように祈りつつ、み言葉を思いめぐらしましょう。教会としてこの世界にさらに神の国を拡大して行けるよう成長しましょう。そして、イエスさまを待ち望む完全な花嫁へと整えられようではありませんか。  M.H


2014年11月23日 

~ 神の国!

 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」イエスさまの宣教の第一声です。
 私たちが、まず第一に求めなければならないものは、何でしょうか?答えは、神の国とその義です。聖書に書かれています。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」
 イエスさまはその生涯の中で、弟子たちに、たとえを用いて、そしてそれを説明され、何度も何度も神の国について語られました。
 十字架に架けられ死んで葬られて、そして復活されて40日の間弟子たちと共におられたとき、その地上の最後の40日の間にも、神の国のことを語られました。「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」
 また、語られただけでなく、ご自身の行動を通して神の国をお示しになられました。
 ペテロや、パウロなどの使徒たちも神の国について語り、神の国の力を実際にあらわしていることが、使徒の働きや、書簡を通してわかります。
 旧約聖書の中にも、神の国はさまざまな形で、ひな形、原型として語られています。
 何年か前に、元総理大臣が、日本は、神の国だと発言し多方面から、非難や賞賛を浴びたことがありました。   神の国っていったいどんなものなのでしょうか。当然、某総理大臣は聖書の語っている、イエスさまが語られた神
の国とは全く違ったイメージでそのような発言をしたし、多くの批判や賞賛もそうだったでしょう。
 ならば、私たちクリスチャンはどれほど聖書が教えている神の国ということに対して、理解しているのでしょうか。私たちは、御国が来ますようにと祈るし、♪神の国と神の義をまず求めなさいと歌います。神の国が心の中にあるとも言うし、神の国を生きようとも語ります。しかし、私たちも神の国ということについて本当にどれほど理解し、そのことがどんなに重要なことであるかと言うことを認識しているのでしょうか。神の国はただ何となく幸せな気分になれる良いところ、とにかく苦しみから解放され、自由になれるところそんな程度に考えているのではないでしょうか。もちろん神の国は素晴らしいものです。
 しかし、決して、それだけのものではありません。ある意味で、神の国はイエスさまの宣教のテーマといえるものなのです。また、聖書の中心ともいえるでしょう。ならばこそ、私たちは神の国ということを念頭に置いて聖書を見なければならないのではないでしょうか。そのように聖書を見たらきっと新しい気付きが与えられ私たちの思いが生き方が変えられると信じます。今日そして来週、いっしょに神の国について考えてみましょう。
                               M.H


2014年11月16日 

~  何はともあれ

 先日の祈り会で賛美し礼拝しているときに、一つのみことばが心に浮かびました。

小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。                   ルカ12:32

 その日の祈り会は始ったとき2人でした。祈り始め賛美をしているうちに3人4人と最終的には6人が集まって祈っていました。小さな祈り会です。毎週毎週忠実に集まって祈っている小さな群れです。
 私たちは本当に小さなものです。人数を見てもそうですし、また自分自身に目を向けてみても、小さなものだなと思わされます。しかし、そんな私たちに主は恐れることはない、と確かなみことばを持って語ってくださっていることを感謝し、しっかりと受け取っていきましょう。私たちの天の父が、喜んで御国をわたしたちに与えてくださる!私たちは小さいけれども、主とともに歩むとき、主が私たちを大いに祝福してくださり、用いてくださることを信じます。 

 

何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。
                        ルカ12:31

 祈り会で心に浮かんだ先ほどのみことばの前に書かれてあるみことばです。その日の祈り会で分かち合おうと思っていたマタイ6章33節のみことばと同じものでした。
主が私たちに今語っておられるのだと確信しました。
 私たちが小さなものだとか、大きいとか、駄目だとか、優れているとかに目を留めているのではなく、神の国を求めようではありませんか。神の国とその義とをまず第一に、です。すべてはそこから始まるのではないでしょうか。求めましょう。探しましょう。たたきましょう。何はともあれ。
                           Mrs.M.H

 


2014年11月9日 

~ 救いのかぶと
 突然つまずいて教会から消えたあの人のこと、突然浮気をして妻から離れたこの人のこと、予想もしなかった知り合いの燃えつきなどは決して突然ではありません。少しずつ、一歩一歩近づいたものです。一粒ずつ蒔いた種がやがて芽生えて収穫になるのです。一つずつ重ね合わせたレンガ一がやがて要塞となります。一番重要な戦いは私たちの両耳の間に起こります。戦場は頭の中です!
 盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来る敵の一番の武器は嘘です。しつこい惑わしです。そうすると、敵対する私たちがしっかり救いのかぶとをかぶらなければなりません。毎日、負けないぐらいにしつこく!
 今日、その救いのかぶとのかぶり方について考えましょう。いろいろな解釈があり得るでしょうけれど、救いのかぶとを心の一新や変革に当てはめたいのです。「救い」には3つのニュアンスがあります。
 過去形:イエスを信じた時に起こった奇跡、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」エペソ2.5。救われました!ハレルヤです!
 未来形:イエスの再臨の時に、すべてが全うされる、「終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくように」Ⅰペテロ1.5。救われます!楽しみです!
 現在進行形:作り変えられるプロセス、「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝え
たこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」Ⅰコリント15.2。言語は「すく

われつつあります」。また、「十字架のことばは…救いを受ける=救われつつある私たちには、神の力です」Ⅰコリント1.18.救われましょう!コツコツです!
 信仰のかぶとをかぶることは、私たちの心や思いが少しずつ、福音のことばを蓄えることによって、作り変えられることです。イエスさまと同じ心を持つように。ローマ12.1-2はそのプロセスを紹介しています。恵みによって救われた自分のすべてを礼拝としてささげましょう、と使徒パウロは勧めます。そして、
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
この世的な考え方―≫ 御心に沿った考え方
悪魔に惑わされやすい古い思い
           ―≫真理にしっかり立つ思い
親や育った環境からの思い込みや根性
           ―≫ イエスにある自由、新しい自分
 
 救われている(いのちの書に名前が書き記されている)のに、この世的な考え方や価値観を持っているなら、転びながら、よろめきながらイエスに従います。悪魔にやっつけられやすいのです。そして、悪魔に立ち向かい、主が支配している縄張りをさらに拡大する戦いにはあまり役に立たないのです。でも、心の一新によって変えられたら、私たちは主に用いられる、勇敢に戦うすばらしい働き人になります。救いのかぶとをかぶりましょう! 
                               G.F                    


2014年11月2日 

~ 小さくはない

 砂浜の波打ち際一面に、おびただしい数のひとでが打ち上げられています。ひとりの人がそのひとでを、拾い上げては海に投げ返していました。それを見ていた人がその人のところに近寄ってきて言いました。「何をしているんですか、何千、いや何万ものひとでが打ち上げられているのに、一匹を拾って海に戻していったい何になるんですか。」するとその人は答えました。「確かに何万ものひとでが打ち上げられ死んでいくけど、今投げ返したあのひとでは、生きるのです。」
 一匹のひとでを海の中へ投げ帰すことは、周りの人々から見たら馬鹿げたことかもわかりません。ほんの小さな行為です。しかし海の中へ帰ったひとでにとったら何よりも大きなことなのです。

 金持ちの人たちが、自慢げに、見せびらかすように献金をささげています。そこにある貧しいやもめが進み出てきて、ぼろぼろの服の擦り切れそうなポケットからレプタ(最小単位の硬貨・1円のようなもの)硬貨2枚をさらえ出し、そっと献金箱に投げ込みます。イエスさまは言われました。「このやもめはどの人よりも多く捧げました。」
   「こんな大勢の人々では、それが何になりましょうか」男だけで、5000人もの人がおなかをすかせています。そこにあるのは五つのパンと二匹の魚だけです。少年が差し出した自分のお弁当。
 まだ一度も人を乗せたこともない、仕事をしたこともない、向こうの村につながれたそんな小さなロバ。イエスさまはそのロバに乗ってエルサレムへと入ってこられました。

  たった、二レプタは、有り余るお金を持っている人から見ればほんの小さなものにしか過ぎないでしょう。何の価値もないものかもわかりません。しかし、やもめはすべてを捧げたのです。明日の身さえわからないのに、残すことなく自分のすべてを。
 五つのパンと二匹の魚は、少年のお弁当です。男5000人の、おなかを満たすにはあまりにも小さいものです。しかし、主はそれを用いて下さり大きな奇跡をなされたのです。その、しるしを見て人々はイエスさまを信じたのです。人々は喜んで大声で神を賛美しました。
 小さなロバが、そのままイエスさまをお運びしました。

  みんな小さなもの、ことのように見えます。実際に小さなことです。私たちが自分にできることは、小さな事かもわかりません。しかしそれをさげすんではいけないのです。自分が持っている小さなものでも、自分がなしうる小さなことでも、神さまに捧げるなら神さまは、それを用いて働いて下さるのです。二レプタは、何万デナリになったわけではないし、パンと魚は、寿司やステーキになったわけではなくパンと魚です。小さなロバが素晴らしい名馬に変わったのでも、きらびやかな馬車を曳いて行ったのではありません。持っているもの、その小さいものを用いて必要を満たし神さまの栄光をあらわしてくださるのです。自分を小さいと蔑んでいませんか。持っているものはあまりない、こんなもの持っていても仕方ないと思ってはいませんか。
 神さまは小さなあなたの小さなものを用いて大きなことをなして下さるのです。               M.H