2015年, 3月のブログ

2015年3月29日 

~ でもおことばどおり

シモン・ペテロはイエスさまの足元にひれ伏しました。
あまりの大漁を見て驚き「主よ私のようなものから離れて下さい。私は罪深い人間だからです。」と言いました。イエスさまは、そんなペテロに「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われました。この時からペテロの生活は変わりました。
イエスさまがゲネサレ湖畔に来られ群衆に語りだされたとき、ペテロは網を洗っていました。深みに漕ぎ出して網を下せと言われたときも夜通し働いて何も取れなかったと少し抵抗しています。
ペテロは、イエスさまには従ってはいたけど、信仰の領域と仕事の領域とは別といったような割り切った態度です。しかし、おことばに従って網をおろし、大漁を見たのです。イエスさまがそれまでの先生から主に変わりました。ペテロたちは主が支配される神の国を生きるものに変わったのです。
私たちは、イエスさまと出会って歩んでいても、なかなか生まれ持った性質や性格がそう変わるものではありません。しかし、だからと言って、いつまでもそのような者が、自分自身を大きく支配していてはいけないのです。そういったものが、ひっくり返される。それこそが、信仰の原点なのではないでしょうか。ペテロは、自分の罪深さを知り、悔い改めました。魚がとれたことを見て神のことばの威力を目の当たりにし、生きた神さのご臨在にふれたのです。ペテロは、まさにイエスさまの十字架を先取りしたのです。罪を示され、自覚し、イエスさまの前にひれ伏し、罪を乗り越えたのです。そして、主に従う者となったのです。

主が支配される神の国が、ペテロのうちに来たのです。その出来事はペテロの生き方を、今までと全く違う者へと導いたのです。では、どのようにそれをペテロは経験したのでしょうか。そのためにペテロはいくつかの越えなければならない壁を越えました。今日いっしょにそれを見てみましょう。
そして、今の私たちは、いかがでしょうか、イエスさまのおことばに従っているのでしょうか。目の前の壁に気づいているのでしょうか?もし従えていないのなら、壁に目を向けられていないのなら、何がそれを妨げているのでしょうか。今日神さまがおひとりおひとりに語って下さることに期待しましょう。そして、私たちも神の支配の中を日々歩ませて頂こうではありませんか。神の国を私たちを通してさらに拡大していきましょう。            M.H 

 

~*今日のメッセージで一番心に響いたことはなんですか
*あなたがおことばに従うことを容易でなくしている要因はどん
な事でしょうか
*それをどのように克服すべきか思いを巡らしてみましょう
*信仰が意志だけで終わってしまったことはないですか
*行動を妨げているものは何ですか
 


2015年3月24日 

~ 神の国の経済

 神の国について学んでいます。神の国とこの世の価値観で最も大きな違いがあるもののひとつの事柄は、経済ではないでしょうか。この世は、得ることに重きが置かれ、得ることこそが人生の最大使命のようになっているのではないでしょうか。お金のことだけではなく、すべての事柄においてもと言っても過言ではないでしょう。何でも人よりたくさん、また人のものを奪ってでも、あたかも人に奪われたら自分の取り分がへってしまうかのように奪い合っています。
 しかし、神の国は違います。イエスさまは、言われました「与えなさい」と。今日はいっしょに神の国の経済について、与えるということについて考えて見ましょう。
 イエスさまは、彼に従う人々に、お金のことについて、また財産の扱い方について多くのことを教えられました。そして物質的な必要のことで心配してはならない、神さまに信頼しなさいと教えられ、自分のために蓄えることが愚かなことであり、与える生き方を教えられたのです。
 イエスさまは、2レプタという本当に少額のお金を捧げたひとりの女性を称賛されました。その女性がささげものを捧げたとき、同じ献金箱にもっともっとたくさんのお金をささげた人たちがいたにもかかわらずです。この女性は、神さまを心から愛していたのです。そして捧げること、与えることは礼拝であるとわかっていたのです。私たちは、神さまのみ前に自分自身を捧げて礼拝します。賛美と祈り、聖餐式を通して、そして捧げものを通して礼拝をするのです。この女性もそんな礼拝の態度で、自分の捧げものを神さ

まのもとに持って来たのではないでしょうか。しかも、この女性は貧乏でありながらも、自分自身の全財産を捧げました。他の有り余るお金の中から捧げた人たちのようにではなく、すべてを捧げたのです。この女性は、もう何も持っていません。この後どうやって生活するのでしょう。この女性は知っていました自分の必要のすべては、神さまが満たしてくださるということを。そして完全に神さまに信頼し捧げたのです。この女性が、その後どうなったかは聖書には書かれていません。しかし、その結果は明らかです。主がすべてを満たしてくださったと確信を持って言えるのではないでしょうか。なぜなら、それは神の国の原則だからです。与えなさいそうすれば与えられるのです。単純で明快です。イエスさまはそのように言われたのです。ルカ6:38
 そして、与えることそれは種をまくことです。私たちは、何をどれだけ蒔くかによって収獲を得るのです。与えることは将来への種まきなのです。今日、神の国の経済のいくつかの原則についていっしょに見ていきましょう。そして、ますます与えるものとして神の国を生きましょう。                        M.H 

 

~*今日のメッセージで一番心に響いたことはなんですか
*イエスさまは弟子たちにお金や財産の取り扱いについて教
えましたがどうしてでしょうか
*物質的な必要で心配していることはありますか
*与えることで解放されたことはありますか
*あなたの与えるライフスタイルについて思い巡らしましょう
 


2015年3月15日 

~ 創世記4章

 御国が来ますように!この地に御国を!神の国を生きる!
イエスさまの十字架と復活によって、神の国の勝利がもたらされました。私たち教会こそが、この地に神の国を具現し、神の国を生きるものなのです。
 今年、私たちは、創世記を学んでいます。1、2章で神の国の始まり(起源)をいっしょに見てきました。創世記は、物事の起源を語る書です。神の国を生きるために、その起源を知ることは、とても大切なことです。
 3章では、天地創造の神さまによって造られた人間、しかも非常に良いものとして造られ、創造主とつながり霊的いのちをいただき、神が創造された世界の管理者とされ、その世界の豊かさを楽しみ味わうそのような者であったにもかかわらず、人間はサタンに誘惑され、神さまの命令を無視し、神さまの支配からはずれ、自由も祝福も失ってしまい創造主から切り離されて死んだものとなってしまいました。しかし、そんな中でも神さまは人間を愛し救いのご計画を示してくださったということを見ました。
 人間は罪のゆえに始まりを見失ってしまいそれゆえ終わりがわからなく、今を見出せないそんな状況になっているのです。
 今日は、4章をいっしょに見ていきましょう。
 3章で罪が入り込み、神の国(エデンの園)の喪失を見ました。4章を通して罪の社会の広がり、サタンの国の拡大を見ることが出来ます。
 人間が創造され、人類の歴史が始まり、早くも人類最初の殺人が起こります。しかも、兄弟による。兄が弟を殺してしまうので

す。兄カインは、自分の捧げものに神さまが目を留められず、弟のそれを神さまが目を留められたことに、ひどく怒り、顔を伏せたと書かれています。それが、引き金となって、弟アベルは殺害されてしまいます。しかし、彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(へブル11:4)と言われました。なぜでしょうか。信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。(へブル11:4)
 カインとアベルの捧げものは、いったい何が違っていたのでしょうか。どうしてカインの捧げものに神さまは目を留められなかったのでしょうか。
 そして、そのカインとその子孫がその後どのような社会を形成するに至ったのか、それが今の人類とどのようにつながっているのでしょうか。いっしょに考えて見ましょう。           M.H 

~*今日のメッセージで一番心に響いたことはなんですか、考え
ましょう
*あなたは最上のものを神さまに捧げているでしょうか
*自分が正しくないと認めることがいやで、また、嫉妬や憎悪
で失敗した経験はありますか
*神さまを排除した社会とは、どんな社会でしょうか。自分が
そんな社会に生活していると感じるときはどんな時ですか。
*今日あなたが見つけた神の国のライフスタイルは?
創世記1~4章をもう一度読みましょう。
 


2015年3月10日 

~ 招待されて

 一匹の羊がいなくなったら、九十九匹を残してそのいなくなった一匹を見つけるまで探しに出かけます。十枚の銀貨のうちの一枚がなくなったら、明かりをつけ、家中をそうじして見つけるまで念入りに探します。イエスさまのたとえ話です。
 さて、迷い出た一匹の羊、無くなった一枚の銀貨はそれぞれ、そのもの自身で、元のところに戻ってくるために何かが出来たでしょうか。銀貨はもちろんのこと、羊は導くものがなければ何もできない、一匹ではすぐに道に迷い、敵の餌食になってしまいます。そんなに弱く愚かな生き物なのです。
 見方を変えれば、それらは、元のところになくては、何の役にも立たないものでした。逆に言えば元のところに戻ったら役に立つものなのです。
 私たちは、いかがなものでしょうか。まさに私たちもこのたとえ話のとおりです。神さまが見つけ出して、神の国(=永遠のいのち)へと招待して下さったのです。自分が何かをしたわけではありません。ただ恵みのゆえに信仰によって救われたのです。そして、神の国では、私たちひとりひとりは役に立つものなのです。
 昨年の終わりから、私たちは、神の国について、いっしょに考えています。聖書は、神の国の回復の物語だということもできるでしょう。また、神の国とサタンの国との戦いの歴史でもあるのです。私たち教会は、サタンの国、すなわちサタンの支配から恵みによって救いだされ、神の国(神さまの支配)の中を生きるように招待された者なのです。

 どのような者が神の国を生きるものに変えられたのでしょうか、神の国に招待されたものとはどのような者でしょうか。なぜ神の国を生きるものとされたのでしょうかその目的はなんなのでしょうか。
 自分自身が、神の国を回復するという神さまの壮大な計画の中に生かされているということ、その使命を与えられ大きな仕事についているんだということを自覚し、本気でそれを受け取るなら、私たちの生き方は自ずと変わっていくと確信しています。いつも、神の国を意識し、そこに焦点を合わせていく時、私たちの、そのライフスタイルが変わっていくのです。
 今日もいっしょに、神さまのテーマともいえる、神の国ということについて、さらに私たちの目が開かれるように祈りつつみ言葉を思いめぐらしましょう。教会としてこの世界にさらに神の国を拡大して行けるよう成長しましょう。そして、イエスさまを待ち望む完全な花嫁へと整えられようではありませんか。          M.H

  ~*今日のメッセージで一番心に残ったことは何ですか?
*迷い出た一匹の羊、失った一枚の銀貨の例えはあなたに
何を語りかけていますか
*罪を自覚することはどうして大切でしょうか
*自分自身が神さまの気前良さ(恵み)によって受け入れ
られていることを知ってあなたはどのように変わりますか
*神の国について思いめぐらしてみましょう。
 


2015年3月1日 

~ 必死に、勇気をもって大胆に

 必死、いっしょうけんめい、大胆さて、この言葉から何を連想されますか?
 最近思います。この必死、いっしょうけんめいや、大胆という。そんな行動が、また言葉自体までもが何となく色あせた。カッコ悪いそんな印象があるのではないでしょうか。
 なにかに必死に取り組むことや、さまざまな障害があり、それを越える事には肉体的、精神的にしんどい、そのような場合にも大胆にそれを越えていくそんな姿が何となく、失われていっているのではないでしょうか。
 「頑張らなくてもいい。」「そのままでいいんだよ。」そんな甘い言葉に、つつまれ覆われて私たちは必要な、必死さや大胆をも、どこかに置き忘れてしまってはいませんか。
 もちろん、私たちはそのままで愛され、受け入れられています。何でもかんでも頑張れ!自分を変えろ、ああしなければいけない、こうしなければならないというのではありません。
 でも、いつしか何もかもが、緩くなってしまっているように感じるのは私だけでしょうか。そして、そんな、ゆるさが私たちの信仰においても、私たちを支配していると思わされることがあります。
 皆さんは、いかがでしょうか。必死に、一生懸命、また勇気を持って大胆にイエスさまの前に踏み出していく、そんな信仰の日々を送っているでしょうか。必死にイエスさまの前に出て、ひれ伏して、一生懸命にお願いする。そのような信仰をはたらかせているでしょうか。
 娘のために「御手を置いて下されば娘はいやされる」と必死に

お願いしたあの会堂管理人のヤイロのように。「イエスの着物に触ることが出来ればいやされる」という信仰を持ち、ひそかにではあるけれども大胆に律法を越えた勇気ある行動をとった長血を患ったあの女のように。
 そして、イエスさまは信仰にこたえられるのです。そのような必死の信仰、勇気ある大胆な信仰に。ヤイロの娘はイエスさまが手を取って、「おきなさい」と言われたら、いやされ生きかえりました。長血をわずらった女もイエスさまに触れていやされました。そしてイエスさまは「あなたの信仰があなたを直した」とおっしゃったのです。
 私たちに、必死で大胆な信仰を求めておられるのではないでしょうか。イエスさまを信じるところに神の国は来ているのです。必死で、勇気ある大胆な信仰で神の国を生きようではありませんか。                             M.H
  ~*今日のメッセージで一番心に残ったことは何ですか?
*立場やプライドがイエスさまの前に行くことをとどめているようなことはないですか
*イエスさまの前に出ていくことをしり込みさせている問題はありませんか
*恐れが信じることを妨げていることはありませんか
【必死の信仰。勇気ある大胆な信仰に主は答えて下さいます】