2015年, 9月のブログ

2015年9月27日 

~  主が共におられる

 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
 これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

 2000年前に据えられた礎の石の上に、積み上げられた強固な石垣。ひとつひとつ違った色、形を持った、個性豊かな石が、確かな計画の上に選ばれ、集められ、積み重ねられてきたこの30年。ジーザス・ファミリーが30周年を迎えました。昨日のパーティでは、多くの方々といっしょに素晴らしい、お祝いの時を持ちました。久しぶりに見る顔、懐かしい顔みんな楽しそうに昔話に花が咲いていました。私たちジーザス・ファミリーは文字通りファミリーなのです。遠く離れていても、いつもいっしょにいても、少し疎遠になっていても、間違いなく神さまのご計画の中であるひと時を共に過ごした、なくてはならない愛すべき存在であり、神さまの栄光のために用いられたそんなひとりひとりなのです。そして私たちはまたそれぞれの働きに召され、さらに強固な石垣を築いて行くのです。40周年、50週年に向かってファミリーとして。
 30年の年月の間にはいろんな季節があったでしょう。そしてその季節を私たちは通り、成長してきたのです。ヨシュアは、カナンを占領しました。そのカナンの占領にもさまざまな季節がありました。40年間荒野をさまよった後、入るべき約束の地へ入っていかなければならなかったのです。それは神さまの命令だったのです。進入というそんな季節を通ったのです。どのように進入したのでしょうか。それは見えない神の見える臨在のしるしである約束の箱に固く従うことによってです。絶対的な信仰の従順によって進入したのです。
 そして、進入したら戦わなければならないのです。克服という季節を通ったのです。ヨシュアはエリコで勝利し、アイで失敗しながらも約束の地を完全に占領したのです。大切なことがあります。それは、カナンを征服したのは、ヨシュアではなく主ご自身であっあということです。主がイスラエルのために戦われ、主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからなのです。主により頼むなら主は助けて下さるのです。私たちは大いなる主の勝利を期待できるのです。進入し克服したらあとは獲得があるのです。私たちは今どのような季節にいるのでしょうか。そして最後の獲得するところまで私たちは心合わせてさらにさらに前進して行こうではありませんか。
                             M.H 
                               


2015年9月20日 

~ 色眼鏡を外して

 私たちの信仰の唯一にして最大の目的はキリストのように変えられ、キリストのように生きることです。ではキリストのように生きるとはどういうことでしょうか。キリストとはどのようなお方なのか。これを理解するためには聖書(特にイエスの生涯について書かれた福音書)を読み、理解する必要があります。しかしその聖書を読んで理解する前に、教会で聞いたことや学んだこと、歌で歌ったこと、育った文化背景などから来ている先入観を排除しなければなりません。

 今のプロテスタント系クリスチャンのほとんどが信じている教義、教理は、ずっとそう信じられてきた訳ではありません。例えばキリストの神性については様々な議論が古くからあり、最終的にカトリック教会が三位一体を『正統』と決めつけ、それ以外の解釈を異端視しました。キリストの名によって多くの他のクリスチャンを迫害して殺し、十字軍では多くの異教徒を惨殺し、さらに新大陸の発見に伴う植民地政策でキリスト教の伝道と共に多くの人たちの自由を奪い、命を奪い、奴隷貿易までキリストの名のもとに始めました。

 聖書は人間によって書かれた66の書物で、1500年以上の年月と50人以上の手、そして3つの大陸にまたがって書かれ編纂されたものです。一部分を切り取って「教え」を作り出すことも可能ですし、どのようにでも解釈できます。十字軍による異教徒の虐殺を正当化する聖句もあります。奴隷貿易を正当化する聖句もあります。聖書を使って少数民族や女性の人権を蹂躙することも可能です。もし心が憎しみと人種差別と暴力で満ちている人が聖書を読めば、聖書を利用して暴力的、破壊的なこともできます。しかし愛、平和、赦しで満たされている人が聖書を読めば、この世界を愛と平和で満たすことができます。

 聖書を正しく読み、聖書の言葉を通して神の御国をこの地に来たらすためには、キリストのようになって、キリストの価値観で聖書を読まなければなりません。聖霊の働きよってキリストのように変えられるしかありません。私たちを救うのは聖書のことばではなく、イエス・キリストご自身です。聖書を通してキリストに出会い、イエスとの出会いを通してまた聖書を読んで成長しいくのです。これを行う信仰のコミュニティによって、神の国が来ることを切に願います。                          K.F

 「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思うので、聖書を調べています。それなのに、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」     ヨハネ5:39-40

 「私たちはみな、顔の覆いを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、首都同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」                       IIコリント3:18
                                


2015年9月13日 

~見えるものに頼らず
 
 
 9月10日、『明日はあの東日本大震災から4年半』、とネットの見出しが目に入ったところだった。 その日茨城県を襲った豪雨は、まるでその震災で起こった津波の被害を見ているようだった。
 電柱にしがみつく人、ベランダで助けを待つ人、屋根に上って愛犬を抱えている夫婦…そして助けられたその直後流されていく家。助けられたある年配の男性はこう言っていた。
 「自然には勝てない。どうすることもできない。」

 9月11日、月に一度のハイナイトだった。DVDによる学びの後祈りの時があり、祈りの課題を3点、詳しく説明してくださり、それを一緒に祈る。その中の一つに、『テロリストに虐げられる子供たちを覚えて』というのがあった。
 写真を見て驚いた。子どもたちの状況を聞いて耳を疑ってしまった。(詳しくはハイナイトスタディーレターをどうぞ。)
 もう一つの祈りの課題は、『福島県の避難者を覚えて』だった。今も故郷に帰れず、避難所生活を送る人々、いのちは助かったが、喪失感を抱え、自らいのちを絶つ人も年々増えているという。
 

 あるメッセージで、祈りについて語られていた。祈りは神さまとの体験であり、目に見えるものに頼らないようにしなければならない、と。異教の世界というのは、見たら信じる、見なければ信じないという考え方をするが、聖書的な信仰とは、視覚でとらえることではなく、すべて聞くことに始まる、と。

 揺れ動く世界の中で、私達はどうするのでしょうか?きよい手をあげ、主の御名を呼び求め、祈りの声をあげていきましょう。私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に!

 御国が来ますように

 草は枯れ、花はしぼむ。
 だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。 イザヤ40:8

                     
                           Mrs.M.H  


2015年9月6日 

~失敗しても
 
 モーセは40歳の時、エジプト人を殺してしまい、殺人者として逃亡しました。それで人生が終わっても不思議ではありません。しかし神さまは、40年後そんなモーセに現れて大きな使命をお与えになられました。
 ダビデは素晴らしい業績を残しました。しかし殺人と姦淫という罪を犯してしまいます。それでも彼が悔い改めたとき神さまはもう一度チャンスを与えて下さったのです。
 ペテロもしかりです。イエスさまのことを3度も命をかけても知らないと否みました。普通はそれでそのまま人生が終わるところですがイエスさまは、ペテロに現れ、自分のやったことに後悔し落胆しているペテロを励まし、心をいやし、再び彼に重要な使命を与えて下さったのです。
 パリサイ派の学者で熱心なユダヤ教徒、クリスチャンを迫害することを使命と考え、事実、その熱心さから迫害し投獄し殺害するほどだったパウロ。普通なら決して赦されそうもないそんな彼に、復活されたイエスさまは現れて、パウロの人生をつくりかえ、もう一度やり直しのチャンスを与えたのです。それがなければ彼の人生は、そして、その働きは残されていなかったのです。
聖書な中には、やり直しの人生がいっぱい出てきます。
 この人たちは、特別だからチャンスが与えられ、赦され、やり直すことが出来たのでしょうか。
 私たちはどうなのでしょうか。神さまは私たちのような凡人には、もうチャンスを与えて下さらないのでしょうか。決してそんなことはありません。モーセやダビデやペテロやパウロは特別でしょうか。い

いえ、彼らも私たち同様に弱く小さなものだったのではないですか。その失敗がそれを雄弁に語っています。何も特別だからではないのです。聖書はもう一度チャンスを与えられた人の記録でいっぱいです。そして私たちにも神さまはチャンスを与えて下さるのです。
 皆さんは、日々の生活の中で、人を傷つけてしまったり、神さまに不従順であったり、自分の弱さ醜さに自己憐憫になってしまって、そしてもう自分はダメだと思い込んでしまっていることはありませんか。そのように、罪の中で死んでしまってはいませんか。
 聖書の大切な教えのひとつは、私たちは、罪のうちで死んでしまうものではなく、赦しを得てその中で生きるものだということです。神さまのハートは、私たちの過去の過ちを罰することより、私たちの将来に、赦しとチャンスを与えることにあるのです。聖書が語る大切なメッセージは、私たちの過去はどうであれ、やり直すことが出来るということです。皆さん、赦されて生きていますか、それとも罪のうちで死んでしまっているのでしょうか。神さまは何度も何度も私たちにやり直しのチャンスを与えて下さるお方なのです。もう駄目、おしまいではないのです。決して神さまはダメ出しを成される方ではありません。失敗してしまうし、罪を犯してしまう、そんな私たちに、赦しを与え、再び歩みだすチャンスをくださるのです。
                              M.H