2015年, 10月のブログ

2015年10月25日 

~ それとこれとは話は別
 
 私だけは別、実際はそうだけど、これは特別なのです。こんなことよくありませんか。
 歩道を、イヤホンを耳に入れ猛スピードで走ってくる自転車、しかも、歩いている人にベルを鳴らしながら、文句を言いたげに。
 歩道いっぱいになって、何人かでおしゃべりしながらのろのろ歩いている人、後ろに近づいてきている自転車に気づきながらも道を譲らずに、反対に自転車をにらみつけながら。
心当たりありますよね?さて、あなたはどっちのタイプ? 
 私自身、自問したら・・・どちらとも、自分自身であることに気づきます。皆さんは、いかがでしょうか。
 その時々の自分の状況によって、置かれている立場によって、虫の居所によって自分の気持ちや態度、行動までが変わってしまうそんなことありませんか。いろんな状況で私だけは、別。人が同じことしていたら、とってもさばきたいけど、気づいてか気づかずか自分だけは、特別。そんな風になってしまってはいませんか。日常の生活の中のことだけだったら、あの人わがままな人ね、で笑って済ませる場合もあるでしょう。せいぜい自分勝手な人とあきれられて済んでしまうかもしれません。しかし、信仰においてはどうでしょう。私たちは、みことばに対してでも時々そんな態度で臨んでしまってはいないでしょうか。本質を無視して、自分の好き勝手に解釈したり、語られていながらも、自分のことじゃない、自分には関係のないことと無視を決め込んだり。
 ある安息日に、パリサイ人の家に食事に行かれたイエスさま。その目の前に水腫を患った人がいました。イエスさまは、律法の専門家、パリサイ人に安息日のことを尋ねられます。病気を安息日にいやすことは正しいか正しくないか、彼らは、答えられませんでした。イエスさまは水腫の人を抱きいやされました。そして、問われました。自分の息子や牛だったらどうするのかと。彼らは、安息日をどのように理解し考えていたのでしょうか。理解するというより利用していただけで自分たちの都合に合わせて解釈し考えてしまっていたのではないでしょうか。
 私たちの信仰はどうでしょうか。時々そんな風になってしまってはいませんか。
 イエスさまの行動の中心は何でしょうか、決められたルールでしょうか、前例に倣って行動することだったのでしょうか。いっしょに考えて見ましょう。そして、、、私たちの生き方はどうかも。

                             M.H                               


2015年10月24日 

~ すべてをもって
 
 イエスさまは言われました。
 受けるよりも与えるほうが幸いである。と。
 私たちは、そんな神の国の文化の中で生き、神の国を人々に紹介し、この世界に神の国を、もっともっと現わしたいし、それを通して神の栄光がこの地上に現れるようにと願っています。

「あなたは、あなたに見返りを与えることが絶対にできない人のために何かをしないかぎり、今日という日を生きたことにはならない」これは、作家のジョン・バニヤンのことばです。わたしたちは、今どんな生き方をしているでしょうか。与えるものとして・・

 エリザベス・エリオットという女性がいました。彼女はケチュア族という部族に接触するために宣教師たちと一緒にエクアドルに行ったのです。そこで宣教師の一人ジムと結婚し、やがて子どもが生まれました。その頃ジムと他の4人の宣教師たちは、別の部族で凶暴と他のインディオの部族からも接触を恐れられている、アウカ族に接触を試みたのです。しかし、その試みは失敗に終わりました。5人は約束の時間になっても帰ってこず、やがて川で白人の死体を発見したとの情報が無線で届いたのです。5人は無惨にも殺されてしまいました。そのような状況で彼女のような立場だったら普通は、エクアドルを引き上げ帰国すると思われるのですが、アメリカでの快適な生活は捨てることは出来たとしても、愛する夫までも失ったのですから。しかし、彼女はそこに残りエクアドルに人々に尽くそうと決心しそして、ケチュア族と生活をともにしたのです。そしてその後、他の宣教師がアウカ族との接触に成功しました。その時、彼女はすぐにアウカ族のところに行ったのです。もちろん復讐のためではなく、現地の人たちといっしょに働き、奉仕するために。そして2年間いっしょに働き生活を共にし、多くの人に神の愛を伝えたのです。その中には、夫を殺した7人の男のうちのふたりも含まれていました。彼女はまさに自分自身を、人生を与え尽くして生きたのです。

 私たちは、自分が与えられ、もっている時間、才能、お金、そのようなものをどのように使っているでしょう。何のために使っているでしょう。自分のための人生に、そのすべてを注ぎ込んでしまってはいないでしょうか。また、見返りを期待できるところにばかり注ぎこんでしまってはいないでしょうか。私たちは与えることによって、生きるのです。そのように、今日という日をただやり過ごすだけではなく、本当に生きているでしょうか。

 与える教会。与えるクリスチャン。与える人生。わたしたちの人生を種としてこの世界に蒔こうではありませんか。今日いっしょに、与えることについて考えて見ましょう。与えることは、自分のもっているものの、大小や、多い少ない、善し悪しの問題ではなく、わたしたちのハートの問題なのです。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。    マルコ10章45節
                             M.H                               


2015年10月11日 

~ 創世記14章

 私たちは今年、創世記を旅しています。前回13章をいっしょに見ました。ということは今日は14章ですが、その前に少しおさらいです。

 主の祝福の契約によってアブラムもロトも多くの財産を所有していました。しかし、ふたりの持ち物があまりに多くなりすぎてしまいました。しもべたちの間で争いが絶えなくなってしまいました。アブラムとロトは別れる事になりました。アブラムは別れて歩むことが最善であると判断しました。そして土地を分けたのです。アブラムの土地の選び方、おいロトに対する姿勢から、私たちは、主に選ばれたものとして、主との祝福の契約に信頼して生きること主のための祭壇を築き神さま中心の生活を送ることを学びました。
 今日は14章です。
 13章で見たように、人間的に見て豊かな地とみられる、得な土地を選んだはずのロトがさんざんな目に会います。当時起こった連合軍同士の争いに巻き込まれてソドムとゴモラの町が略奪にあい荒れすさんでしまいます。そればかりかロトもこれまで築き上げた財産のすべてを奪い取られてしまったのです。いつ何が、どこでどうなるのか私たちにはわかりません。まさか、ロトもこの土地を選んだ時には想像もしていなかったことでしょう。私たちも、今現在で物事を判断してしまわないように気を付けなければなりません。私たちは長い目で見た信仰の判断が必要なのです。神さまは私たちを最後はどこに導かれるのでしょう。
 そのような状況の中で、アブラムはどのような行動を起こしたのでしょうか。それは、まさに神に選ばれたものとしての信仰をはっきりとあらわすものでした。
アブラムは犠牲を払いロトを助け出します。決して、ロトに感謝を求めることもなく。しかし、ここでもロトは、こんな痛い体験をしていながらも、以前と同じように堕落してしまった町ソドムに住み続けます。選ばれたものとしてのアブラムの生き方と、どこまでも選ばれていないものの道を選び取り歩んで行くロト。私たちは、どのように生きるのでしょうか。
 ソドムとゴモラの王たちでさえ、全く歯が立たず逃げ去ってしまった、そんな強敵の連合軍に対峙し、それを執拗に追撃し、見事にアブラムはロトたちのすべての財産を奪い返しました。アブラムのこの圧倒的な強さの秘訣はどこにあったのでしょうか。いっしょに考えて見ましょう。

                              M.H 
                               


2015年10月4日 

~ ひたすら主に

 おびただしい大群が攻めてきました。早くも、目の前にまで迫ってきています。
 あなただったらどうするのでしょうか。今、私たちは実際にそんな状況に陥ることは、考えられませんが、人間関係におけるピンチ、健康に関しての攻撃、仕事のトラブル、そして経済的な逼迫と様々な攻撃はやってきます。目の前にある問題に私たちは恐れてしまうこともあるでしょう。
そ のような中で、私たちは、どうすればいいのでしょうか。
ユダの王、ヨシャパテ王は、そんな状況の中で恐れて、ただひたすら主に求め、断食を布告しました。(Ⅱ歴代誌20:3)私たちは、いかがでしょうか。考えさせられます。人に解決を求めたり、医者や薬に頼ったり、もちろん、それらはとても役に立ち、必要なことです。決して人や薬が悪いと言っているのではありません。ただ、そのようなものに頼ることが優先され、あたかもそれで大丈夫かのように惑わされてしまって、ひたすら主に求めることをおろそかにしてはいないでしょうか。また、罪を悔い改めることや、神さまへの信頼と献身を告白することなしに、戦おうとしてしまってはいませんか。
 ヨシャパテ王は、ただひたすら主に求め、断食を布告しました。人々はみな集まってきて主の助けを求めました。そして彼らが頼る神さまはどのような方であるのか、そのことを告白し宣言しています。(Ⅱ歴代誌20:7)その神さまは、天におられる神さま。異邦の王国を支配なさる神さま。つまり全地を支配される神さま。その御手には力があり、勢いがあり、だれも対抗しうることができない神さま。
 同じ神さまが、今、私たちと共にいて下さるのです。しかも、その神さまは、私たちが苦難の中から呼び叫ぶならそれを聞いて下さり、お救い下さると約束してくださっているのです。(Ⅱ歴代誌20:9) 
 私たちも、問題を目の前にしたとき、神さまの御前に出て行って、そこで励ましを受けて、しっかり立って、主の救いを見る者でありたいのです。神さまは、私たちが苦難の中で呼び求めるなら、聞いてお救い下さる方なのです。私たちは自分自身の弱さを認めてすべてを主に明け渡し、主だけに目を注ぐなら、主は私たちを励まし戦略を与え私たちとともにいて戦って下さるのです。
                             M.H