2015年, 11月のブログ

2015年11月22日 

~ いい夫婦

 私事ですが、結婚して20年が過ぎました。月日が流れるのは本当に早いものだと思わずにはいられません。しかしそれは済んでしまったからであって、その渦中にある時?は、長く感じていたものです。たとえば、喧嘩をしているときなど、、、
 振り返ってみれば、「もう!信じられへん!」と何度繰り返したことでしょう。お互いを知って、わかって結婚したつもりでも、実際生活をすると、今までの習慣や、環境の違いがあらわになり、お互いのことを何も分かっていなかったという現実が突き付けられました。「こんなはずじゃなかった、、、」この言葉もどれほど言ったことでしょう。今となっては笑い話ですが。
 恋愛とは、どれだけ相手を好きになれるかであり、結婚とは、どれだけ相手を赦せるかである。と、先日新聞の記事でたまたま読みました。なるほど、と思わされました。
 性格も、育ってきた環境も習慣も違う二人が一緒に生活するのですから、摩擦があって当然です。そんな中で、お互いを赦し、受け入れることで、生活は成り立っていくと思います。自分の我を通し続けてうまくいくはずはありません。私たちはそれがわかっていても自分の力で相手を赦し、受け入れるということがなかなか出来ない、出来ても長続きしない、というのが現状ではないでしょうか。
 では、どうすればいいのでしょうか?赦し、受け入れるって、、、それをして下さった方がいるんですよね?私たちを最初にそのように見てくださった方、そう!イエスさまに目を留めましょう。いつもイエスさまに助けを求めましょう。イエスさまの恵みによって、前述のように繰り返したことばを口にすることは以前と比べ物にならないくらい少なくなりました。(まったくではありませんが…)本当に主の恵みです!主を見上げて歩むならば、主の恵みによって、私たち夫婦はさらに造り変えられ、主がご計画してくださったように進み続けていくと信じています。
 そして、いつも覚えておくべき大切なことは、赦し、受け入れることは、お互いさまであること。自分も、赦され、受け入れられているということ。             Mrs.M.H
                       

 

 


2015年11月8日 

~ 創世記15章

 私たちは今年、創世記を旅しています。前回14章をいっしょに見ました。ということは、今日は15章ですが、その前に少しおさらいです。

 13章そして14章を通して、アブラムとロトの生き方から私たちは、学んできました。私たちはの人生の節目の判断を今現在で物事を判断してしまわないように気を付けなければなりません。私たちは長い目で見た信仰の判断が必要なのです。神さまは私たちを最後はどこに導かれるのかに目を留めていかなければなりません。そして神に選ばれたものとしての信仰をはっきりとあらわして生きていくのです。アブラムのように。ロトは逆に様々な出来事の中でどこまでも選ばれていないものの道を選び取り歩んで行きました。私たちは、どのように生きているのでしょうか。

 今日は15章です。
 神さまは、さらにアブラムにチャレンジをされます。もっと大きな信仰をもって、新しく思い切って主を信じてみないかと、迫られるのです。
「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」 1節
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 5,6節
 子孫の繁栄につながるような肝心の跡継ぎが、まだ与えられる兆しもないそんなときに、しるしがあってから信じるのなら、いくらかは信じやすいでしょうけど。(私たちはそれでも信じないときもあるかも…)あえて神さまは、アブラムに何の予兆もないそんなときに思い切って信じてみるようにと迫られたのです。そして彼は信じました。
 12章で、アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。とその一言が語るように、信仰によって歩みだしたアブラムにとって今また新しい信仰のチャレンジの時だったのです。
 そんな新たなチャレンジにアブラムは、これまでも信じてきた主でしたが、今ここに来て思い切って信じてみるようにとのチャレンジに応答したのです。神さまのことばによる約束ひとつを握りしめ、まず信じるところから始めたのです。
 私たちも、これまでも主を信じて来たけど今一度、もう一つ思い切って主を信じ直してみようではありませんか、何も兆しの見えないからこそ、じたばたするのではなく信じるところから始めてみようではありませんか。        M.H 
                   


2015年11月1日 

~ 色眼鏡を外して―キリストのリハビリプログラム
 
 「父よ。彼らをお赦し下さい。自分で何をしているのか知らないのです。」人の世界を訪れ、人と共に歩み、苦しみ、そして人によって殺された神の最後の言葉です。イエスは、罪深い人間を罰そうとされている神に対して、その罰が下らないように必死でなだめていたのでしょうか?それとも、神を殺すという最悪の罪でさえ完全に赦すというイエスの言葉は、唯一真の神の本当の心を表したものなのでしょうか。

 ユダヤ人だけではありません。世界中のあらゆる信仰において、神は恐るべき存在として知られています。神の逆鱗に触れると祟りが起こる、それをなだめる為に供え物をする、でないと様々な天変地異により農作物が育たなくなり、命が奪われ、生活が苦しくなる―そういう世界です。日本では今でも神道の世界観が根付いています。お賽銭、お守り、お供え物、地鎮祭などはすべてそういった考えから来ています。

 聖書を見ても、ユダヤ人が神をそのように見ていたことが分かります。弟子たちも、パリサイ人も、罪を犯せば身に悪いことが起こると思っていました。イエスはそういった世界の中で、本当の父の愛を示してくださいました。良い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、雨を降らして下さる方、99匹の羊を置き去りにして探しに来てくれる羊飼い、そして背いた子どもの帰りを毎日待ってくれるお父さんです。

 聖書は色んな考えの人によって色んなことが書かれています。「日頃の行い」「自業自得」などの価値観で育った私たちは、その聖書の中から私たちに対して怒っている神様、私たちの至らなさ、罪深さを嘆いている神様を見つけてしまうかもしれません。しかしイエス・キリストが示して下さる神様は「お父さん」です。どんなことがあっても、永遠に離れることのない完璧な愛で包んで下さる方です。このお父さんを皆が知って救われることが私たちの願いです。

 「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」
                         ローマ8章15節

 「私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか・・・私はこう確信しています。死もいのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」            ローマ8章35節、38-39節

                                  K.F