2015年, 12月のブログ

2015年12月27日 

~   感謝

 いよいよ、2015年もあと5日。
 皆さんにとってこの1年は、どのような1年だったでしょう。主は私たちと共にいてくださり、導いてくださったのです。主の素晴らしい御業をほめたたえ感謝を捧げましょう。
 
ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。
御力の大空で、神をほめたたえよ。
その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。
そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。 
                   詩篇150:1,2
 
 私たちが共に集い家族として、神さまの御前に出て、いっしょに礼拝を捧げられたことを感謝しましょう。そして、共に励ましあえる家族にも心から感謝しようではありませんか。いつも助けてくれる家族がそこにいる。友がいる。なんという幸せでしょうか楽しさでしょうか、兄弟たちが共に集まるところに主がとこしえのいのちの祝福を注いで下さるのです。
 主の前に静まってこの一年を思いめぐらすなら、きっと数え切れない主のいつくしみと恵に圧倒されるのではないでしょうか。主は私の羊飼いなのです。

創世記17章

 私たちは、創世記の最初のメッセージから、神が、天と地を創造されたこと、そして、創造主が造られたすべてのものは非常に良かったこと、人間がその中で、神のかたちに似せて造られ、神に祝福された生き物であり、地を支配する使命を受け神に依存して生きる非常に良いものであることを見て今年の一年の幕を開けました。そして神の国についていっしょに学んできました。今日は今年最後の礼拝です。やはり、最後は創世記で締めくくりましょう。今日は、創世記を16章まで、天地創造・神の国の始まり、人間の反逆・神の国の喪失、祝福の契約・神の国の再興計画を振り返って、そして、17章をいっしょに見て神さまの側からの約束はどのような約束だったのか、17章で約束されたことは、そしてそれらの契約はどのような性質のものだったのかを見て、主がアブラハムに約束された約束を思い起こして感謝しましょう。
                             M.H                                   

 

 


2015年12月13日 

~イエスが隣人を愛したから我々も隣人を愛する

 もうすぐ2015年が終わります。今年はずっと神の国について教会として見てきました。これからもずっと神の国について考えていくことでしょう。もうすぐクリスマスを迎えますが、王として来られたキリストを、私たちも心を開いて迎えたいです。

 キリストを王とするとはどういうことでしょうか。それは彼の戒めに従うということです。ではイエスの戒めとは何でしょうか。モーセの律法を中心として社会で生きたイエスは、モーセの律法から最も大切な戒めはどれかと尋ねられた時、神を愛することと隣人を愛することの2つを挙げました。しかし最も大切な2つを挙げるだけに留まりませんでした。「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と言いました。

 律法全体と預言者が?要するに、どんな伝統やしきたりを守ることよりも、神を愛し、そして他の人を愛することが大切だ、と言ったのです。今では2000年の教会史があり、クリスチャンはこれとこれとこれを信じるべきだ、という考えもありますが、キリストが命じたのはこのたった2つのことです。

 初期教会はこれを理解していました。パウロはⅠコリントで「愛がなければ意味がない」ということを強調していますし、ガラテヤでも「律法の全体は『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」と言っています。使徒の最初
の数章を見てみると、持ち物を分け与えたり生活を共にすることで神の国が築かれていっています。神の国を築くのは教義でも教会組織でもありません。キリストの愛のみです。

 私たちはイエス・キリストを通して神の圧倒的な愛を受けた者たちです。ですからそれを同じ愛をもって隣人を愛しなければなりません。その愛が私たちの中だけに留まっていては神の国は来ません。またキリスト教の教義を教えることが伝道ではありません。キリストの愛を経験させることです。それによって受け入れ合い、赦し合い、助け合うコミュニティができていきます。それが神の国なのです。

このクリスマスに、神の国が私たちのところに来ますように!
                                                                 K.F
 
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
                                                           イザヤ9:6
                                                

 

 


2015年12月3日 

~ 創世記16章

 私たちは今年、創世記を旅しています。前回15章をいっしょに見ました。ということは、今日は16章ですが、その前に少しおさらいです。

 15章で、神さまは、アブラムにチャレンジをされます。もっと大きな信仰をもって、新しく思い切って主を信じてみないかと、迫られるのです。しかもそれは、子孫が星のように増え広がるというものでした。アブラムにはその時子孫の繁栄につながるような跡継ぎはなくその兆しさえない状態だったのにです。今までも神を信じてきたアブラムでしたがここに来てさらなるチャレンジを受け思い切って主に従ったのです。神さまのことばの約束はまず信じるところから始まるのです。

 そして、今日は16章です。祝福の契約の後継者がいないという現実が年を召したアブラム夫婦に重くのしかかってきます。
「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 15:5,6  「なぜ」「どうして」という疑問や葛藤が起こって来たでしょう。
 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」16:2
 そして、アブラムはサライの言うことを聞き入れました。
 ここに来て、約束は、いただいてはいるがどうにも直接年老いた夫婦に子が与えられるとは、信じ切れずに妻サライの言うことを聞き入れてしまいました。
 子は与えられ、子孫は繁栄すると言う約束は信じるけど、まさかそれが年老いた妻からであるとは信じきれないので、人間の知恵に頼り人間の方法をさしはさんで、女奴隷ハガルの胎を借りて、跡継ぎを設けるという段取りを組んでしまったのです。
 私たちの信仰はどうでしょうか。人間の知恵や方法に頼って、主の約束を成就しようと試みてはいませんか。ついつい、現実を見て、焦ってしまったり、自分でもう無理と決めつけて、そのようになってしまってはいませんか。大筋では信じるけど、細かい点においては、額面通りには受け取れずに妥協案で何とかしようという信仰になってはいませんか。結局アブラムがそうしたことによってそれが仇となり、ハガルに生まれる子と、やがて妻のサライから生まれるイサクとの間に生じる確執の中でアブラムは双方の父として、人知れず悩むようになりました。そればかりか後の歴史に大きな禍根を残すことになりました。
 現実の壁にぶち当たったとき、ストレートに神のお約束を受け取れず、人間の小細工に頼ってしまう信仰は、祝福されないばかりか結局行き詰るのです。行き詰ってしまう前に、下手な小細工をやめてストレートに神さまの約束を信じ受け取るものとなりましょう。               
                             M.H