2016年, 1月のブログ

2016年1月31日 

~主が与えてくださる作戦会議

 今日の礼拝でイッポさんたちご家族を私たちは、ニンキ族への宣教のために送り出します。今まで、ジーザスファミリーで共に礼拝しそしてその中で神さまからビジョンをいただき、その神さまからの働きかけに従順に応じて一歩を踏み出していかれるイッポさんたちのそんな門出をこうして礼拝の中で家族として祝福し送り出せることそしてこれからも祈りにおいて、また、さまざまな必要に応じてサポートしていけることは、私たちにとって素晴らしい特権です。今日ともに感謝と喜びの時を持ちましょう。

 先週はアガペ研修会でした。神の国をシンプルに、生きる、信じる、伝える、今年私たちはそんな目標を掲げました。そして家族の回復、御国を運んでいくこと、私たちだからこそ、にフォーカスして進んでいくことを共に確認し共有しました。恵みの中からキリストのかおりを放つのです。いっしょに御国のために心を合わせて働きましょう。研修会に出席できなかった方もぜひ資料とCDをお求め下さり、共に前進して行きましょう。
 私たちクリスチャンとしての生き方の本番は、決して集会に集っている時だけではありません。日々の生活、職場や家庭であったり、学校、友人との交わりそのようなときこそが本番なのです。もちろん礼拝に集っているときがどうでもいいわけではありません。それこそは最も大切なときです。私たちはそんな礼拝の時をハーフタイムのようなときだと考えています。そこで、神さまを礼拝し神さまの慰めと力をいただきます。そして互いに、励まし合い、慰めや忠告をいただき祈りあって、自分のあり方を調整し、そしてまた遣わされているところ本番へと出ていくのです。本番を戦うために必要不可欠なときです。それはスポーツの試合にたとえるなら選手たちが本番の試合を終えてロッカールームに戻ってくるそのようなときなのです。
 私たちは、ここ数年ロッカールームミーティングというものを主に、DNAのリーダーや牧会スタッフが一か月に一度集まって、教会の動きや各DNAの報告を行い祈るという時を持っていましたが本当の意味でのロッカールームかといえば少し違ったように思います。そこで、研修会の折にも話しましたが、今年から月に一度、ロッカールームを私たちみんなで持ちたいと考えています。もちろん強制ではないのですが、第1日曜日の午後にいっしょに神さまの前に立って、神さまに目を注ぎ、互いに分かち合い、励まし合い祈りあいそして神さまからの語りかけに耳を開いて行くそんな時を持ちます。ときには、具体的にいろんなことを相談する場になる時もあるし、またただ主の前に静まり待ち望むそんなときになるでしょうが神さまがなされること、聖霊さまの導きにゆだねて行きたいと思っています。アガペ会員の皆さんはもちろんのこと、いっしょにジーザスファミリーとして心を合わせて前進して行こうとされる皆さんお集まりください。今日、私たちは少しそんなロッカールームについていっしょに考えて見ましょう。
                             M.H


2016年1月19日 

~同じ心、同じ判断 

「大事においては一致、小事においては自由、すべての事においては愛。」(アウグスティヌス)
年が改まって、年の始めに、神さまがわたしたちジーザス・ファミリーをまた、個人的に皆さんおひとりおひとりを大いに祝福してくださり、そのご計画を持って新しい領域へと運んでくださる、そんなことを思いめぐらせていると、わくわくしてはきませんか。たとえ今、目に見えている状況があまり芳しくなく思えても、いきづまっているように感じられたとしても、私たちの神さまは、生きておられ、わたしたちと共にあり、私たちに最善の道を用意してくださっているお方です。しっかりとそんな主に目を上げていっしょに前進していきましょう。
先日の祈り会で、ある方にみ言葉が示され、それを通して皆が励まされました。
 人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。Ⅱコリント6:9,10
 全世界をおさめておられる神さまは、今の私たちの状況をもその御手の中に収めて下さっているのです。だからこそ、私たちは時に、神さまの大きな視点に立って、自分の日々の生活を見なければならないのではないでしょうか。小さな自分の毎日に悶々とし、一喜一憂してばかりいないで。

今年も、アガペ研修会が近づいてきました。私たち家族にとって、とても大切な時です。いっしょに神さまのみ前に立って神さまを礼拝し、私たちの主にある歩みを確かなものとしていくために調整すべきところを調整し、共に励まし合い祈り合っていきましょう。
さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。Ⅰコリント1:10
パウロが、コリントの人たちに願っているように、私たちもまた、一致が必要です。パウロは同じ心、同じ判断を完全に保つようにとお願いしています。私たちも、今この変化の時、神さまが私たちを大きく用いようとしてくださっているこのような時に、たがいに愛を持ってひとつとなって立ち上がろうではありませんか。
今日、私たちは、神さまの視点に立って、神さまの大きなご計画の一部である自分たちに思いを巡らしながら、一致することについて、そして自由について、一緒に考えてみましょう。そしてこの変化のときにこそ、私たちは心を合わせて主を慕い求め、主に聞き従っていこうではありませんか。互いに家族とされている喜びの中で、愛を持って、主に完全なる信頼を置いて前進していきましょう。                         M.H


2016年1月12日 

~  神の国とその義

 「神の国とその義を第一に求めなさい。それに加え、これらのものはすべて与えられます。」

 私たちは教会として2015年一年間神の国について語り、学んできました。キリストは神の国について生涯を通して語られたことが福音書の中で見られますが、この一節は大変興味深いものです。

 私たちがクリスチャンとして、あるいは一人の人間として行うすべてのことは、2つに分類できるではないでしょうか。「神の国とその義のもの」と「これらのもの」です。もう一つ興味深いのは、「神の国とその義」は、自動的に神様が与えて下さるものではなく、私たちが切に追い求めないといけないものなのです。しかしその他のもの(ここの文脈では食べる物、着る物など生活に必要なもの)は、神の国とその義を追い求めている人たちには与えられるのです。

 多くのクリスチャンはその逆をしているのではないでしょうか。「これらのもの」を必死に追い求め、「神の国とその義」は勝手に与えられるものだと思っていないでしょうか。私たちは限られた人生を無駄にしないために、何が神の国とその義のもので、何がその他のものなのかをしっかり吟味しなけ
ればなりません。それを吟味するための材料は、聖書に書かれている言葉、特にイエス・キリストが語った言葉です。

 教会としても個人としても「神の国とその義」に直結することにエネルギー、人材、祈り、お金をかけるべきではないでしょうか。しかし今自分たちがしていることが本当に神の国とその義に直結するものなのか、父なる神が恵んでくださる「これらのもの」なのかをじっくり考えて精査し、それを基に生活や行動を変えたことがあるでしょうか。

 今日、そしてこれからも、家族として、愛を示しながらも率直に話し合い、神の国とその義のために生きる教会でありたいです。

 「『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか、神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」     ルカ17章21節

                            K.F                                                  

 

 


2016年1月3日 

~   明けましておめでとうございます。
永遠に変わることのない主の愛と、御約束の中、
ともに集い全能なる神さまを礼拝できる、
特権を心からお喜び申し上げます。
今年も、主にあって愛し合う家族として、
主を愛し、主に仕えてまいりましょう。
神さまの豊かな祝福の中で新年を迎えられることは
なんと幸いなことでしょう。
今年もよろしくお願いします。

見る!聞く!語る!

 見ざる、聞かざる、言わざる、の三猿(さんざる、さんえん)をご存知でしょうか、三猿とは三匹の猿が両手でそれぞれ目、耳、口を隠している像です。ある説によれば、人の欠点や都合の悪いことは見ても見ないふりをし、聞いても聞かないふりをし、よけいなことを言わないようにするそんな意味があり人をそのように戒め、教育するために用いられたようです。
 私たちは、いかがでしょうか。主に従う者として何を見、何を聞き、何を語るのでしょうか。人の欠点を見てさばくものではなくまた、見ないふりをするのでもなく、しっかりと目を開いてその人の内に働くすばらしい神の恵みを見て喜ぶものでありたいものです。
 悪口やいらない噂話を聞くのではなくしっかりと耳を開いて主のなされたことの証を聞き喜ぶものでありたいのです。

 そして、人の悪口や否定的なことばを語るのではなく徳を高め、人を立て上げるそんなことばを語ろうではありませんか。
 私たちは、三猿のようになりたくはないのです。いつもしっかりと目を開き、耳を澄ましてそして大胆に語るものでありたいのです。いっしょに主の栄光を見ようではありませんか。主がなしてくださる、すでに今もなしてくださっている素晴らしいことをいっしょに見ていきましょう。主が語ってくださる、すばらしいご計画に耳を傾けていこうではありませんか。いや傾けるのではなくしっかりと耳の全部を向けて主から聞いていこうではありませんか。私たちは主から聞くものです。信仰は聞くことからはじまるのです。耳をふさがないで聞きましょう。そして大胆に口を開いて、主の恵みを、祝福を語ろうではありませんか。私たちが語らなければ誰が語るのでしょうか。私たちが賛美の声を上げなかったら、私たちが黙ったら石が叫ぶのです。主がなして下さることを、なしていて下さることを見ましょう。主が語ってくださることを聞きましょう。そして大胆に語りましょう。
 見ざる、聞かざる、言わざる者ではなく。見て、聞いて、語る者として歩みましょう。                M.H