2016年, 2月のブログ

2016年2月23日 

~ 罪を憎んで人を憎まず?

 クリスチャンは人の罪を指摘することが仕事だと勘違いしていることがたくさんあります。ノンクリスチャンに対してその罪を指摘することで罪悪感を生じさせ、キリストを受け入れるように説得する、「伝道」もよくあります。そればかりでなく、他のクリスチャンに対しても罪を指摘し、正しい道に導こうとします。
 クリスチャンがよく指摘したがる「罪」とはどんなものがあるでしょうか。一般的には、道徳的に反していることが多いです。それはモーセの律法やその他聖書に書かれていることに基づいていることが多いです。しかしキリストは「罪」をどう扱ったのでしょうか。
 キリストが生涯を通して遊女、取税人、その他大勢いの罪人と共に時間を過ごしましたが、彼らの罪を取り上げて長々と説教をしたことはありませんでした。彼がいつも厳しい言葉で接していたのは、律法や慣習を根拠に人の罪を指摘してばかりいたパリサイ人たちと律法学者たちでした。
 しかし私たちは教会でも私生活でも何が罪で何が罪でないかを考えたり話したり議論したりするのにたくさんの時間を使ってしまってはいませんか。しかしキリストははっきり言っています。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」
 
 私たちは、勿論キリストが説いた愛と恵みで人に接しますが、いつしか「罪を憎んで人を憎まず」という考えが浸透してしまっています。でもキリストはそんなこと一言も言っていません。却ってこう言っています。「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たちよ、まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。」マタイ7:1-5
 教会は人に赦しと癒しと安らぎと自由を与えるべきところですが、罪を指摘されることを恐れて人が教会に来ないのであればそれはすごく残念です。しかし教会の中の梁に気付かず教会の外の人たちの塵を取ろうとばかりしていれば、そうなっていまいます。
 私たちはイエス・キリストのように生きる教会になりたいです。そうすれば、どんな人も自然に集まってくるようになるはずです。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3:17
                           K.F


2016年2月14日 

~  祝福される交際

 2月14日はバレンタインデー。昔バレンタインという修道士がいて、悲しんでいる人、悩んでいる人のために愛のことばを贈って励ますことを生涯にわたって行いました。そのバレンタインを記念して、彼の誕生日である2月14日が来ると、人々は「愛のことば」を贈りあうようになったのです。それが今では、女性から男性に愛を告白する日、チョコレートをプレゼントする日として定着しています。
 男性が女性を求め、女性が男性を求めるということは、アダムとエバの昔から神さまが人間のうちに入れてくださった基本的な欲求であり男と女を結婚へと向かわせる大きな動因です。しかしバレンタインデーがいつの間にか女性が男性にチョコを送る日と変わってしまったように、神さまが定められた結婚というものが現代社会においては大いに揺らぎその意味内容が大きく変質してしまっています。最近の結婚までのプロセスは、恋愛・セックス・プロポーズ・結婚これが一連の流れであると考えられていて、ほとんどの方は別に何の違和感を持ちません。しかし、これは神さまの定めておられる基準とは大きく異なり歪んでいるのです。
 「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」 創世記2:24
 神さまは結婚を祝福されました。そして「不品行(結婚外でのSEX)を避けなさいと」Ⅰコリント6:18で明確に命じておられるのです。つまり結婚外での性的な関係はいけないと語っておられるのです。誰に迷惑をかけないといっても、同意の下であったとしてもそのような交わりの中には決して祝福はないのです。性的な関係は結婚の中でのみ大きな祝福となるのです。
 少し古い資料ですが2000年の調査によると、結婚式がすむまでSEXをすべきでないという方は1973年には58%であったものが1998年には26%となり、逆に愛し合っているなら結婚前であってもSEXをしても良いという人は73年には19%であったものが98年では43%にも及んでいます。それから15年たった今では、SEXを容認するその数字はもっと上昇していると考えることは、今の風潮を見れば容易なことではないでしょうか。いまや若年女性の7人に一人がセフレ(セックスフレンド)がいるともある本では紹介されていました。現代社会の中にあってSEXはあまりにも軽く扱われ、いかにもそれをすることが開放的であり自由であるかのように、あおられ、性の解放が自由や祝福をもたらすかのように思わされてしまっています。しかし、結婚外のSEXはまさに百害あって一利なしなのです。互いの尊厳を傷つけ自分たちの将来に大きなダメージを与えるものです。私たちの人生を破滅させるほどに大きな力があるのです。
 今週の礼拝の中で祝福される交際・結婚ということについていっしょに考えていきましょう。
 この世が何といっているかではなく、神さまが何といっているかに聞きしたがって、祝福された交際・結婚を求めていきましょう。
 知らなかった、失敗してしまった、もう遅い?いや遅すぎることはないのです。イエスの御名によって赦しときよめがあるのです。イエスさまは、あなたの過去に焦点を当てているのではなく、あなたの将来に焦点を当ててくださるお方なのです。イエスさまの関心は、これからあなたがどのように生きるかにあるのです。

                              M.H


2016年2月7日 

~ どんな反応?

 神の国をシンプルに、生きる!信じる!伝える!。今年の私たちの目標です。そして、家族の回復に私たちは、ひとつのフォーカスをおいています。
 家庭によい実を結ぶためには、ただ成り行きで生活をしていても、決して良い実を結ぶ祝福された家庭となることはないでしょう。
 神さまが造られたこの世界は、夏が去れば冬が来て、花が咲いてまた枯れて、堤防が出来てもやがては崩れ去っていく、建てた家もやがては古くなっていくといったように、ある意味で自然の法則ともいえるものがあります。しかし、人生には、そんな自然の法則にまかしているだけでは決してうまくいかないものもあるのです。むしろ、自然の法則に逆らって、神さまと共に労をし、建設しなければならないものがあります。まさに、家庭もそのような者のひとつではないでしょうか。
 家庭に良い実をならすためには、まず土壌を耕し、よりよい土壌を築かなければならないのです。そして、そこには良い種をまかなければならないでしょう。その上、蒔きぱっなしでは成長しません。そこを手入れし、必要に応じて水や肥料を注ぎ育てていかなければなりません。
 いっしょに、私たちのよりよい家庭を築くために私たち自身の生き方をチェックしましょう。

 今日は、特に私たちに罪をもたらしてしまう貪欲ということについて、ルカ12章の愚かな農夫のたとえ話から考えて見ましょう。
 私たちの人生はまた、家庭は、物質さえあれば幸せというものではありません。多分、もう皆さんはお気づきのこととは思いますが。しかし、私たちは豊かであってはいけないわけではないのです。神さまは私たちを祝福して下さっているのです。
 そんな、神さまの物質的な祝福に対して私たちの反応、態度は問題になってくるのです。私たちは、神さまからの物質的な祝福の中で、何を見ているのでしょうか?何を考えているのでしょうか?また、何を経験し、何を持っているのでしょうか。このルカ12章を通して神さまが、何を語って下さっているのか、そして、私たちがどのような反応を示し、どんな態度で生きることを望んでおられるのかをいっしょに考えていきましょう。

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」 ルカ12:15
                              M.H