2016年, 3月のブログ

2016年3月27日 

~石をころがせ

 石がわきにころがされてあったその朝、失望が希望に変わりました。
 嘆き悲しみが喜びの歌声へと、暗闇に光がさしこんだのです。すべてを、そうです夢・希望・将来・喜び・楽しみをそして、いのちまでをも封じ込めてしまった石はころがされ、そこに自由・解放が与えられたのです。勝利が与えられたのです。もう、そこをふたたび闇がおおうことはないのです。
 何人かの女の人がその朝、イエスさまを葬った墓にやって来ました。三日間嘆き悲しみ、その朝イエスさまに対する純粋な愛と、抱えきれないほどの落胆や失望を背負い途方にくれながら墓への道を歩いてきたのです。しかし、そこにイエスさまの死体はなく、その死体を封じ込めていた墓の石はわきにころがしてあったのです。永遠の勝利がそこにもたらされたのです。復活の朝は、死んでしまったものに、いのちを与えたのです。
 あなたは、そんな復活の力を信じますか?それとも・・墓の前におかれた石につまづくのでしょうか。
 私たちが、その復活の力を信じるなら、その復活の力にもあずかることが出来るのです。なぜなら、キリストの復活、そしてそこにあるいのちと可能性は私たちのためのものだからです。私たちはイエス・キリストの十字架と復活を聖書の語っているとおり事実として受け入れなければならないのです。
 「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・」  
                     Ⅰコリント15章3・4節
 イエスさまは、私たちの罪をその身に負ってくださり、十字架にかかり私たちの身代わりとなって死んで下さいました。そのことなしに私たちと神さまとの真の和解はないのです。そして、イエスさまは死と闇の力を打ち砕きよみがえって下さったのです。その事なくして私たちは、真の勝利の生活をおくることは出来ないのです。
 今日イースターのこのときに、その救い主イエス・キリストをあなたの主であると告白しようではありませんか。そのときからあなたの人生が変わるのです。
 あなたの今までの人生の中で、封じ込められ押さえつけられてしまった。そんな夢や希望はありませんか。そして、いつもあなたの人生を、閉じ込め押さえつける落胆や失望の闇はありませんか。イエスさまの復活の力がそこにおよんでくるのです。そこに光がさしこむのです。今日、自分であるいは、誰かによって置かれたあなたを閉じこめ封じ込めるための石、あなたの人生の夢や希望の上に置かれた蓋を取り除けましょう。イエス・キリストの復活の力によって。そのとき夢・希望・解放・自由・勝利が、そして、朽ちる事のないいのちがあなたのものとなるのです。
                              M.H                     


2016年3月20日 

~ 聖書の最大のテーマは?

  神の国について、いっしょに学んでいます。イエスキリストのからだである、教会は、神の国の拡大のために働いています。
 アダムが神に反逆して地上の神の国が崩壊しました。神さまは直ちに、ひとり子イエス・キリストの十字架を用意されました。(創世記3:15)神の国を回復し、人類を永遠の滅びから救い出すためです。聖書はキリストに焦点を合わせて書かれ、神の計画はキリストの来臨に向かって展開していきます。神はまずアブラハムとその子孫イスラエルを選び、イスラエルを神の国の祝福の源とするという契約を結ばれました。そして、そのアブラハム契約を土台として、モーセ契約(祭司による神の国・キリストの初臨によってもたらされる神の国の型)、ダビデ契約(王権による神の国・キリストの再臨によって完成される神の国の型)、そして新しい契約が結ばれていきます。それらは、神の国の祝福をもたらす方としてキリストがアブラハムの子孫から出てくることを約束したものです。そして、それらの契約に沿ってキリストが来られる、その時代、場所、活動(十字架と復活)そして再び戻ってこられるその有様が預言されています。
 そして、預言されたとおりにキリストは来臨され、預言されたとおりに偉大なわざをなされ、神の国の祝福と救いをイスラエルにもたらされました。しかし、契約の民イスラエルはイエスさまを拒絶し続けました。イエス・キリストの十字架と復活を信じ受け入れた異邦人の教会が、信仰によるアブラハムの子孫として、主の再臨の日まで神の国の祝福を担うことになりました。
 しかし、新しい契約はイスラエルが悔い改めてイエスをキリストと信じ、教会とイスラエルがひとつとなる日が来ると約束しています。そして、御国の福音が全世界に宣べ伝えられ、すべての国民に証されキリストが再臨されるのです。その時アブラハムからの契約はすべて成就し神の国が完成へと向かうのです。
 つまり聖書は、キリストについて書かれてあり、聖書の最大のテーマはキリストなのです。旧約聖書のどの章を取っても、そこには、キリストの影が現れているのです。キリストは旧約聖書を解くカギなのです。私たちは、昨年から、創世記を旅しています。少し今までのおさらいとこれからの予習を兼ねて、今日、創世記の中に現されているキリストについていっしょに見てみましょう。 
           M.H                     


2016年3月13日 

~ さらにまさる道

 「また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」
                                       第一コリント12章31節
  旧約聖書には私たちの大好きなヒーローたちがたくさん出てきます。主を信じて故郷の家族を残して旅だったアブラハム、兄弟の裏切りに合いながらも知性と啓示でエジプトを導いたヨセフ、イスラエルの民に律法を与え荒野で40年間導いたモーセ、約束の地にイスラエルを導き入れたヨシュア、羊飼いから王となり強い信仰と神との深い交わりで国の基礎を造ったダビデ、そしてイスラエルや周りの国々に救いを裁き告げ知らせた預言者たち。
  彼らはその時代において役目を果たしましたが、本当の神の啓示を見ることはできませんでした。ヨハネは「いまだかつて神を見たものはいない」と言っています(1:18)。なぜなら、天地創造の主なる神の完璧な啓示はイエス・キリストの他にないからです。イエスは神の一部分ではありません。イエスこそが神であり、神はイエスなのです。モーセや預言者たちは部分的に神の啓示を得ていて、そこから律法や預言が与えられました。しかしパウロが言っているように、完全なものが来れば不完全なものは廃れます。
 その完全なものとはイエスであり、愛です。神は愛です。愛もまた、神の性質の一部ではなく、そのすべてです。ですから私たちのクリスチャンとしてすべての基礎は神への愛、そして隣人への愛です。律法ではありません。聖書でもありません。私たちの一つ一つの言葉と行動が神の愛を現したものにならないといけません。
 それがキリストに従うことです。それが神の国であり、約束の地です。ヨシュアやダビデのように無実の民を虐殺して国を奪ったり守ったりする必要はありません。彼らはイエスの愛を知らなかったのです。イザヤら預言者たちも完全に神の愛を知ることはできませんでしたが、イザヤは神の国についてこう預言しています。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に固く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山に、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々をさばき、多くの国々の民に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」
                          イザヤ2章4節
 私たちは、キリストが教えてくださった愛の道を歩むことができるのです。                           K.F
 


2016年3月6日 

~ シンプルに

 イエスさまは、神の国とその義とを求めなさいと言われました。また、どうしても必要なことはわずかです、いやひとつです、とも言われました。
 今年、私たちはシンプルに生きることを目指しています。私たちの生活を複雑にしているもの、難しくしているもの、簡単に生きることを妨げているものにどのようなものがあるでしょうか。クリスチャンとして、私たちがただイエスさまに目を留めて、主に従って生きていくことを妨げているものはありませんか。
 今日、いっしょに妨げとなっている三つのことがらを考えて見ましょう。過去と恰好と括弧です。
 まず、ひとつに私たちの過去へのこだわりがあるのではないでしょうか。例えば、過去に失敗したことや傷ついたことにこだわり、いつまでもそこから離れられない。また失敗するんじゃないか、また傷つくんじゃないか。逆に傷つけてしまうのではないかと。
 今を生きなければならないのに、過去に縛られ、過去が今を支配してしまっているそんなことはありませんか。今を生きることだけでも十分複雑なのに、そこに過去の心情を持ちこんでしまって、さらに複雑になってしまっているそんなことはないでしょうか。イエスさまは、過去にはこだわられなかったのではないでしょうか。姦淫を犯した女の話、そして放蕩息子の話から考えて見ましょう。
 また、私たちは、恰好ばかり気にして、形ばかりにとらわれて、クリスチャンとしてこうあるべきだ、みたいな生き方になってしまってはいないでしょうか。人はうわべを見るが主は心を見られるのです。いくら見せ掛けを繕っても、イエスさまは私たちの恰好、見てくれには関心がないのではないでしょうか。イエスさまだけに目を留めましょう。それがシンプルに生きることです。
 そして、括弧です。なにか括弧をつけるそんな特別はないのです。あの人は私とは違ってとか、あの人は私なんかよりずっと神さまに愛されている、ということはないのです。人をねたんだり、人と自分を比較したりして生きるより自分自身を命がけで愛して下さったイエスさまに目を留めましょう。
 簡単な生き方、それは、過去を見ない、とらわれない、人の関心から解放され感謝にあふれて生きることです。

                             M.H


2016年3月6日 

~ 創世記17章~18章15節

 私たちは昨年から、創世記を旅しています。前回と言っても去年の話ですが、17章の前半をいっしょに見ました。ということは、今日はその後半からですが、その前に少しおさらいです。
 前回、天地創造・神の国の始まり、人間の反逆・神の国の喪失、祝福の契約・神の国の再興計画を振り返って、そして、17章をいっしょに見ました。神さまの側からの約束はアブラハムとその子孫を祝福し、数を増やし、大いなる国民とすることでした。そしてアブラハムとその子孫は諸国民の祝福の源となることです。そして、それらの契約を17章で神さまは更新されたのです。それはまたどのような性質のものだったのでしょうか。無条件の契約であり、永遠の契約でした。おぼえておられましたか?
 さて、今日は契約者の継承者イサクの誕生の予告です。
 カナンの地に導かれて、はや25年という歳月が流れ、アブラハムもすでに99歳になっていました。そこに神さまは初めて「全能の神」として現れ、アブラハムとサラの間に男の子が生まれることをお告げになられます。それを聞いてアブラハムは笑ってしまいます。
 私たちも、神さまのお告げ、語りかけに対して、人間的に考えたら、また、自分の弱さ、力なさ、未熟さに目を留めた

ら、「そんなあほな」と笑ってしまうようなときがあるかもしれませんね。主に不可能はないのです。自分を見たら不可能としか思えない状況であったとしても。
 その後主がマムレの木のそばでアブラハムに現れました。そして、来年の今頃、妻サラに男の子が出来ていることを語ります。それを聞いてサラもまた笑ってしまいました。心の中で笑ったのです。主は、それをご存知でした。
 サラは「笑いませんでした」とそれを打ち消しました。サラは心の中は見られていないと思ったのに、見透かされていて恐れを感じ神さまの前で自分の不信仰を恐れたのです。
「彼女は約束して下さった方を真実な方と考えた」
                          へブル11:11
 私たちは、何を恐れるのでしょうか、神さまは真実な方なのです。私たちのすべてを知っておられるお方なのです。そして、私たちが恐れなければならないのは、まさに真実な方、神さまなのです。
 そして、約束を与えて下さるお方が真実な方であるということを受け取ることが信仰なのではないでしょうか。そんな信仰によってサラは、年老いた身でありながら子を宿す力が与えられたのです。(へブル11:11)
 今日、私たちもアブラハムとサラを通して信仰ということを考えて見ましょう。                 M.H