2016年, 4月のブログ

2016年4月22日 

~ 宣教・愛・礼拝

 宣教っていったい…何、どんなこと?
神さまを知らない人に神さまのことを伝えること!? 文化を超えて民族を超えて福音を人々に運び届けること!? かしこい学問の世界では宣教とは・・??
私たちにとって宣教って!?いろいろ考えさせられることがあります。
 愛、それは、宣教の土台であり、全てといっていいのではないでしょうか。
 もちろん、いろんな戦略や、プログラムは必要です。洗練されたパフォーマンスも時に必要かもわかりません、しかし本当に人々の心を作り変えていくのは、愛なのです。
 私たちは神さまに、愛されています。そして、神さまを愛し、いただいているその愛を持って人々を愛して、受けた愛、祝福を流し出していき、人々の心に届いていくことが出来るのです。簡単な事ですが、これこそが宣教ではないでしょうか。ひとからひとへ、私たちから世界へ、愛を流し出していく、愛なくして宣教はないのです。
 そしてそのようなハートを、つかわされている者も、つかわす者も、祈る者も、支える者もみんなが持つことが大切なのではないでしょうか。
 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
 これは、神さまの命令です。宣教を考える時、私たちは、この命令を無視することは出来ないでしょう。
 また、礼拝と宣教と愛は切り離せないものです。アンテオケの教会は、礼拝の中からパウロとバルナバを宣教に遣わしました。パウロのひらめきでも、バルナバの思いつきでもなく礼拝の中で聖霊さまが語られたのです。私たちのモザンビーク、コティ族への宣教も、思いつきで始まったことでも、地図を広げての戦略会議で決定して始まったのでもないのです。神さまの御前に出ていって、神さまの愛をいただき、神さまを礼拝していく中で、聖霊さまが語ってくださり、私たちのうちに愛が満ち溢れ出して、その愛がアフリカのほとんど知られていない小さな島の人々から忘れられたような民にまで流れていったのです。
 宣教、その源は神を愛し、真の礼拝者として、自分自身を生きた供え物として、神さまの前にささげていく礼拝の中にあるのです。
 神さまとの関係、交わりなくして、私たちは何も出来ないし、神の愛の中で私たちがその愛をいっぱい受けなくては、愛は流れていかないのではないでしょうか。しかし、私たちが愛の中にとどまり、自分自身をささげ神さまを礼拝するとき、そこから流れ出ていくものは、人々を変え、地域を変革し、国々をひっくり返すのです。
 私たちクリスチャンの全ての奉仕。いや、人生の全ては、神さまを礼拝するところから流れていき、そして、神さまを礼拝する中で前進し、礼拝の中に帰っていくのです。 
 神さまを礼拝しましょう。           M.H                      


2016年4月10日 

~ モリヤ山への道

 私たちの多くは、神様から聞いた約束を長く、長く握りしめていることがあります。しかし、それは本当に神様が語ったのか分からなくなって来ることもあります。でもそれを疑問に思えば「不信仰だ」と周りから言われ、またそう思うように教会から教え込まれているかもしれません。自分が正しいと思った道、神様から聞いたと思って歩んでいる道や、仕えている人も、それが間違いかもしれない、と考えてはいけないのでしょうか。
 教会生活や信仰生活は、自由や安心を与えるものであるべきですが、逆に束縛となり、自分で考えるという能力を奪ってしまうこともあります。私たちの信仰生活の中でも、状況を客観視して、自分で考え、柔軟で賢明な判断をしていくことが欠かせません。そうしないと、信仰の故に破滅の道へと歩み、また他の人をも導いてしまうかもしれません。まさにアブラハムとイサクのように。
 もし私たちのうちの誰かが、「神様に命じられた」と言って自分の子ども生贄として殺そうとすれば、「そうか、神様の御心なら仕方ない」と言う人がいるでしょうか。そんなはずありません。「神様がそんなこと仰るはずない」「殺すのは絶対間違っている」などと言うでしょう。精神科医に見てもらうように取り計らうかもしれません。「神様が言われたから」という言葉は、実はものすごく恐ろしい言葉です。

  イサクはモリヤへの道を歩かされ、途中まで付いて来た人たちは去り、重い重荷を背負わされ、もっともな疑問もかわされます。最後には自分が担いでいた薪に縛り付けられ、いけにえにされそうになります。すべて「神様が言ったから」です。しかし恵み深い神様は、本当はそんなこと考えていない、ということを啓示して下さったのです。
 私たちにはイエス・キリストの教えと生き方が模範として与えられています。人類は何千年も「神が言ったから」を盾に色々な酷いことも行ってきました。でも旧約聖書にあろうが、教会史にあろうが、キリストが示した愛と平和の道から逸れたものは、神様の本当の御心ではなく、私たちの信仰生活からは除かなければなりません。
 あなたが抱いている「神からの言葉」も、愛と平和より、苦しみと困難ばかり与えているものかもしれません。もう一度神様に聞いてみてはいかがですか。もしかしたら、神様の
2つ目の声が聞こえるかもしれません。あなたが、あなたの家族が、生きてモリヤの山から下りて来るきっかけになるかもしれません。                    K.F

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10:10                                                 


2016年4月3日 

~シンプルに!

 神の国をシンプルに!これは、私たちが今年目指している生き方です。この複雑な世にあって皆さんはいかがでしょうか。少しは、生き方が、信仰が、伝道がシンプルに変えられてきましたか。
 今日は私たち、ジーザス・ファミリーその家族としてのシンプルだけど決して軽くはないことについていっしょに考えて見ましょう。
 私たちには、アガペ会というひとつの家族のつながりがあります。以下はその会の参加申込書に記載されているコミットする事柄です。
1.私は、すでに洗礼を受けています。
2.信仰と行いに対する聖書の権威を肯定し、使徒信条を肯定します。
3.神を愛し、人を愛し、神と教会に、真心から仕えます。
4.ジーザス・ファミリーの理念に同意し、理念に基づくビジョンのもとで、共に心を合わせて地の塩、世の光として、いっしょに働きます。そのために、主から与えられた才能、賜物、性格を主の栄光のために開発し、その成長につとめそれを用います。
5.互いに愛し合い、受け入れ合い、イエスさまにある家族の一員として、ジーザス・ファミリーを支え、また支えられ、家族としての責任を果たし、家族に守られ成長します。
6.上記の事柄に同意出来なくなった場合は、その旨を牧師に報告します。 また、結婚、転勤などのやむを得ない理由で、教会を移らなければならないときも報告し、共に祈り、ジーザス・ファミリーの家族の祝福を受けて導かれたところへと移って行きます。
 これらは、救いの条件ではないし、クリスチャンはこうでなければならないといった律法ではありません。家族としてのつながりの決め事であり、私たちが祝福され守られて神の国の働きを推進していくためのものです。人をさばくための複雑で難しい規約や会則ではありません。しかし、簡単なことのようだけど決して、軽いものではないのです。今日、主の前に謙遜に心を開いて、私たちの弱さ、移り気さ、楽な方へ流れやすさを認識しましょう。出来ていないからとさばくためではありません。家族として互いに、励まし合い、助け合い、祈り合うためです。そして、私たちは、そんな家族なのです。                           M.H

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。                      エペソ5:25