2016年, 6月のブログ

2016年6月26日 

~ 創世記20章、21章22~34
 
 創世記の旅はいかがでしょうか?さあ旅の続きをしましょう。
 その前に、おさらい。前回、私たちはロトとその家族の歩みを通して近づいてはならないものに近づき、逃げなければならない時にためらい、後ろを振り返ってはいけないのに振り返るそのような生き方、歩み方がどのような結末をもたらしたのか、そして、そのような中での神さまの憐れみと希望を一緒に見て考えました。
 主なる神は義なる神であり、裁きの神、愛なる神であり憐れみと慈しみの神です。さて、私たちはどのように生きるのでしょうか、ロトのように自分中心に生きるのか、それとも神さまの御前に真剣さをもって、アブラハムのように他者の祝福に生きるのでしょうか。覚悟はできていますか?
 さて今日は、20章、21章を見ていきます。
 主は、アブラハムを選び、契約を結ばれました。それゆえ、アブラハムを通して、ご自身の計画を成就するために主はアブラハムを守られます。
 ロトの家族は特別で、アブラハムの歩みは罪がなかったかといえば、決してそんなことはありません。程度の差こそあれアブラハムは完ぺきだったというわけではありませんでした。アブラハムもまた、罪で滅ぼされたソドムとゴモラの町や、救われてのちも淫乱の罪を犯したロトの家族のように、自らの弱さのゆえに、道を外してしまい、神様に矯正されるひとりの罪びとでした。聖書に出てくる登場人物、すべてが罪びとなのです。もちろん私たちも同じように皆罪びとなのです。しかし、神さまは、アブラハムとの契約のゆえに決してアブラハムを見捨てられません。ご自身のご計画のためにアブラハムを守られます。いくらアブラハムが不真実であったとしても主は約束に誠実なお方なのです。
 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。2テモテ2:13
 アブラハムは、豊かに祝福されました。それは周りからも一目瞭然だったのです。ゲラルの王アビメレクと将軍ピコルはアブラハムのところにやってきて、契約を結んでほしいとお願いをしに来ました。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」アブラハムに敵対していても祝福も成功もないと思ったのでしょう。そしてアブラハムは堂々と王や将軍と渡り合って契約を結びます。アブラハムには天からの権威があったのです。威光に満ちていました。神を信じて生きるものに託されている権威。私たちもそのような神さまの祝福の中、天来の威光に満ちて生きようではありませんか。主がともにおられるのです。                   M.H                          
                   


2016年6月26日 

~ 父の日
 
 今日は父の日です。お父さん、本当にいつもありがとうございます。私たち家族のために、頑張ってくれて、働いてくださって、心から感謝します。お父さんの守りの中で平安に過ごせることをありがとう!
 先日の祈り会で、父の日のために祈りましょう、ということで、お父さん方の祝福をお祈りいたしました。お父さんがたが、励まされ、主の恵みに満たされるように。
 祈り終わって、こんな声が、、、「父の日って、なんだかショボいよね。」と。たしかに母の日に比べるとそうかもしれないですね。新聞にも、51%の人が父の日にプレゼントを贈らない、というような記事が載っているのを目にしたところでした。そういえば聖書にも、「祖母ロイス、母ユニケ・・・」あれ?テモテのお父さんは、どこに?う~ん、お父さんの存在感って???
 家族のために一生懸命働いて、家族を養い、導いてくれているお父さんなのに、私たちはそれに気づいていない??
 実際、朝早く家を出て夜遅くまで頑張って働いていてくれるけど、私たちの目に飛び込んでくるお父さんの姿がないので、私たちはそれがわからない??? 
 お父さんが毎日どんなふうに過ごし、どんなことを考え、どんな思いでいるか、聴いてみてはいかがでしょうか?中には、もうお父さんの気持ちを聴くことのできない方もおられることと思います。お父さんのことに思いをはせながら、感謝しようではありませんか。
 今日礼拝の中で、お父さんの祝福をもちろん祈るのですが、私たち一人一人のお父さんに対する感謝がわきあがるようにも祈りましょう。そして、ことばと行動をもって、感謝を表しましょう。
お父さん!ありがとう!!!         Mrs.M.H

                           

                              
                   


2016年6月12日 

~ あなたは誰?
 
 神さまは素晴らしいお方です。ここ数週私たちは、礼拝の中で、皆さんの救われた時の証を順番にしていただいています。皆さん様々な状況の中で、神様が出会ってくださり素晴らしい奇跡をなしてくださり救ってくださったそんな救いの証を聞くととても恵まれますよね。神さまがおひとりひとりを選んでくださり、計画を持っていてくださり使命を与えて下さっているって本当に素晴らしいですね。そのことを私たちは忘れてはならないのです。

 ある、クリスチャンの看護士が、病院の集中治療室にいた重病の患者の看護をしていた時の話です。
 患者は、まだ60代前半でしたが、日がたつにつれ、彼の終わりが近づいているかのように見えました。その看護士は、神様のことを彼に伝え、彼の救いと癒しのために一生懸命祈ったそうです。毎日が過ぎるとともに彼が直る可能性も去っていきました。
 ある晩、彼が呼吸困難に陥って、担当医たちは一晩は持たないだろうと思っていました。その看護師は、その晩、彼のベッドの横でいつもより長い時間、彼の癒しのために祈りました。
 次の日の朝、その看護師は、あのベッドはもう空になっているだろうと覚悟して病院に出てきました。すると驚いたことに、あの患者はビンビンしていて、座って朝食を食べているではありませんか、彼女は大喜びしました。「主をほめたたえます。いやされたんですね」と叫びました。
 「そうなんですよ。」と彼は元気に答えました。
 「気分もいいんです。あなたとあなたの祈りのおかげで、いやされました。」
 「いいえ、違います。私ではありません。」と彼女はすぐに答えました。
 「神様です。そして今からは、あなたがどうしていやされたか、その理由を見つけることがあなたの責任ですよ。」

 私たちは、神さまのしもべです。神さまに属するものです。主の目的のために生かされているのです。私たちひとりひとりも神さまに救われたものとして、この人生を歩もうではありませんか。一つの質問があります。あなたは誰ですか?ここで何をしていますか?今日いっしょに考えてみましょう。
                              M.H

                              
                   


2016年6月5日 

~ 麦秋至
 
 ちょうど今の季節を七十二候の一つ麦秋至(むぎのときいたる)といいます。麦が熟して、収穫するころ。実りの季節を、麦の秋と呼びます。四季では初夏ですが、この時期は麦の実る時期なので収穫の時を表す「秋」という言葉と「麦」を組み合わせて「麦秋(ばくしゅう)」と言い表します。刈り取りを待つ麦畑は、いちめん黄金色。

 今のこの季節に、私たちは何を見ているのでしょうか、何を期待し何を願っているでしょうか。皆さんは、刈り入れを待つばかりの畑が目の前に広がっているのを見ているでしょうか?
 イエスさまは、弟子たちに言われました。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。もちろん、イエスさまは実際に弟子たちに鎌を持って来て色づいている畑を刈り取るように、畑仕事をしなさいとそのようなことを言われたわけではありませんよね。救いを待っている多くの人々のことを語られたのです。
 今、私たちの周りはどうでしょうか。町の中には多くの人々があふれています。私たちの周りにどれほどの、まだイエスさまを知らない人たちがいるでしょうか。ご近所に、会社に、学校に、スーパーでよくおしゃべりするあのひと、毎日一緒に暮らしている主人?私たちは、そのような人々をどのように見ているのでしょうか?別に何も考えていない。まだまだ収穫時ではない。別に刈り取らなくても、刈り取れたら刈り取ろうか。イエスさまは刈り入れるばかりだと言われました。イエスさまはそのように見ておられたのです。イエスさまが語られたように、イエスさまが見ておられるように私たちも目を上げてみていたいですね。
 また、イエスさまは、収穫は多いが、働き手が少ないとも言われました。これは弱りはてた群衆を見て言われたのです。ここでもイエスさまは、収穫を見ておられました。イエスさまは何を見ておられたのでしょうか。まさに人々をです。私たちもそんな目で私たちの周りを見ようではありませんか。
 もし、色づいて収穫を待っているそんな収穫物に気づかず、何も感じず、あるいは感じていながらもまだまだと、刈り入れを引き延ばしていたらどうなるのでしょうか。畑の中で、枯れ果て朽ちてしまったり、ほかの誰かが盗んでしまったりしてしまうのです。そして、その結果刈り入れを怠ったものは、収穫できなくなってしまうのです。しっかりと目を上げて、そして一緒に働きましょう。麦秋至の季節の後には、二十四節気の一つ、芒種(ぼうしゅ)と言って種をまくのに最良の季節がやってくるのです。種まきと刈り取りは繰り返されるのです。種まきばかりではないのです。刈り取るものも蒔くものもあり、刈り取るときも蒔くときもあるのです。蒔くのが得意の方も、さあいっしょに刈り取りましょう。畑は色づいていますよ。                           M.H

                              
                   


2016年6月4日 

~ 創世記19章
 
 さあ、創世記の旅の続きをしましょう。その前に、おさらい。前回、私たちはアブラハムが主と契約を結んだものとしてどのように行動し、その役割はどのようなものであるのかを見ました。そこから私たちがどのように生きるのかをいっしょに考えました。大胆なとりなし、しかし神さまへの畏れを持った謙遜。主の公議と公正を根拠に祈り、主の憐れみと寛容そして忍耐に信頼し祈ることを学びました。そして二つの対照的な世界、同じ時代に、すぐ傍らにありながらも神の国とそうでない国は大きな違いがあることを見ました。今の私たちはそのような中に、世の光地の塩としておかれているのです。そんな私たちの使命はひとりでも多くの人を光の世界神の国へと導くことであり、ひとりでも多くのたましいを救いの世界へと招くことです。
 今日は、19章を見ていきます。
 ある劇場から火が出た。ピエロが舞台に立って観客に火事を知らせ、避難を促した。しかし必死になればなるほど観客は冗談だと思って笑い続けた。そうして多くの人が死んだ。世の終わりもそのようなものだろう。(キルケゴール)
 ロトの婿たちには、ソドムの滅びは「冗談のように思われた」(14節)
 世が滅ぼされ、自分も裁きを受け永遠の滅びに至る、とは信じられないことかもしれません。しかし終わりの日は来るのです。私たちも今そのような時代に生きているのではないでしょうか。
 ロトの婿たちは、ソドムの裁きをまともに受け止めきれなかったのです。決して、神さまはロトだけを救おうとされたのではなく、ロトのかかわる人々をその婿までもを滅んでしまわないようにと救おうとされたのです。
 神さまは、ひとりでも多くの人を救いたいのです。神さまはひとりでも多くを閉じ込めて滅ぼそうとされる方ではありません。救い出そうとして労力を惜しまれることはありません。
 それにもかかわらず、それを拒絶する人間。
 私たちは、いかがでしょうか。その救いのメッセージを本気で受け取ることなく、冗談ごととして受け取らなかったロトの婿たちのようになってしまってはいませんか。私たち人間を救おうとされる神さまの働きかけに対して私たちはいつも応答するものでありたいですね。そして私たちは、この救いの神を、その惜しみない愛を今も滅びの中にあるこの世界に伝えて行こうではありませんか。私たちは、後ろのものを振り返り立ち止まるものではありません。ためらうことなく主のことばに従って行くものでありたいのです。           M.H