2016年, 7月のブログ

2016年7月31日 

~ 捧げて生きる

 救いって、救われたってどういうことでしょうか。私たちは、よく救いや、救われたという言葉を使いますが、ひとことに救いていっても一体、救いってどういうことなんでしょうか。弟子になるということもまたそうですね。
 それは、自分の内面の変化、心情の変化や心持ちの変化でしょうか。決してそうではないですよね。
 イエスさまは、十字架のあがないと復活によって、私たちに完全な救いを供給してくださいました。そして、私たちがそれを全部受け取るためには、絶対的な服従を要求されました。言い換えればそれは私たちに完全な救いを受け取ってほしいと願ってくださっているのです。残念ながら、多くの人が一度はイエスさまを信じても洗礼を受けるまでにはなかなか至りません。また、いつの間にか、教会から離れてしまいます。どうしてでしょうか。それは、救いが単なる心持や、内面、心情の変化で終わってしまうからではないでしょうか。主の要求されていることは、そのようなことではなく、救いというものは、全存在の変化であり、生き方そのものの変化なのです。
 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。     ローマ12:1、2

 私たちが、救われているということは、生きた供え物として、主の前に自分自身をささげて生きるのです。心の一新によって自分自身を変えて、主に従って生きるのです。今日、いっしょに主に従って生きること、キリストイエスを主とすることについていっしょに考えてみましょう。   M.H    
                          
                   


2016年7月27日 

~ 家族の回復

 家族の回復をテーマに、益田先生ご夫妻をお招きしての夏の聖会。何人かの方が証してくださっているように本当に恵まれたときでした。私たちジーザスファミリーにとってもまた私自身にとっても何か新しい希望の光を見させていただいたと感じています。
 奇しくも、グレースコミュニティのとりなしの皆さんがこの聖会のためにとりなして祈ってくださっている中で「明るい光を見て」おられたとのことをお伺いし、また、先生ご自身も聖会の中でそのとりなしの時に感じていたイメージがわかったような気がしたと感じてくださりそのように分かち合ってくださいました。そのことも、とても私たちの励ましではないでしょうか。今の現状に目を向けると、難しく、問題もいっぱいで、否定的に見えるかもわかりませんが、霊の目をしっかり見開き、信仰で見るなら、それは、明るく輝いたものとなると確信しています。
 私たちは、家族ごとの救いを、ずっと追い求めてきました。まさに、それは家族の回復でもあるのです。いま集っている皆さんの救われていない家族が救われること、また私たちのコミュニティー、オイコスの家族が救われること、しかも個人でではなく家族ごとに救われるそんな日を信仰で見、受け取ろうではありませんか。

 そのために、今その備えをしていかなければならないのです。私たちがなすべきことは何でありそれをどのようになしてくのかをしっかりと神さまに聞き、確信をもって前進していきたいものです。皆さんともに祈ってください。そして、信仰の目を開いて新しいシーズンへといっしょに前進しましょう。素晴らしい主の御業を経験しましょう。        M.H
                     
                                                       
                   


2016年7月14日 

~ 目を覚ましていなさい

 いよいよ来週は聖会です。ここセンターでの日曜礼拝は、お休みです。聖会に全部は参加できない方も幸い今年は会場も近くです。ぜひ、聖会会場でいっしょに日曜礼拝の時を持ちましょう。家族ですから。
 また、聖会にまだ参加を迷っている方があったら是非、参加してください。講師の益田先生からの聖会のアウトラインをいただきました。(別記参照)特に家族の回復に焦点を当ててくださっています。とても興奮するような内容です。
 みなさんに3つの問いかけをさせてください。
 「本当にあなたの家族は大丈夫ですか?このままでいいんですか?機会を逃してもいいのですか?」
 会場はあと10数人ぐらいは、入れます。

 あまりの暑さに、眠れない夜が続いているのではないでしょうか。それに加えていろんな煩いが頭の中で湯気を上げ、次々と心配事が頭の中で湧き上がってきてすっかり睡眠不足になってしまってはいませんか。そして大切な時にうつらうつらとまどろんでいては、大変なことになってしまいます。敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
 私たちはどんな時も身を慎み、そして目を覚ましていたいものです。ほえたける獅子って?動物園ののんびりしたライオンではなくまさに怒り狂っているライオンです。しかもおなかをすかせて食い尽くすべきものを探し求めて歩き回っているのです。まさに虎視眈々と獲物を狙っているのです。そんなところで誰が自分にまどろんだ状態を許すことができるでしょうか。私たちはしっかりと悪魔の本質をとらえなければなりません。しかし、だからと言って恐れることはありません。私たちはこの悪魔を正しく警戒すべきです。しかし同時に、度を超えて恐れたり、心かき乱されるようであっては いけません。ペテロはこのような悪魔が相手では勝ち目 がないから、逃げよとは言いません。むしろ「この悪魔に立ち向かいなさい。」と命じます。立ち向かうの は、この悪魔に勝つ見込みがあるからです。どのようにしてでしょうか。それは「堅く信仰に立つこと」によってです。神への信仰に堅く立つなら、悪魔に打ち勝つことができます。
 今日、いっしょに神の力強い御手の下にへりくだりましょう。あらゆる恵みに満ちた神、私たちを永遠の栄光の中に招き入れてくださった神は、私たちをちょうどよい時に堅くたたせてくださるのです。しばらくの苦しみの後で完全にし、堅くたたせ、強くし、不動の者としてくださるのです。
                     M.H
                                                       
                   


2016年7月9日 

~ 何が正しい??

 ただ今、この部屋の室温は、設定温度通り27度です。
 しかし、ある人にとっては、それはとても暑く感じ。また、ある人はそれが少し肌寒く感じてしまいます。どうして、そのように違う感じ方をするのでしょうか?
 簡単なことですよね。人によって、違っていても別におかしくはありません。それぞれの個性や今までの経験によって、見方、感じ方は違うものです。これは、ある意味、室温という小さな問題ですが、論理的に考えれば二人の考えが違っている場合、どちらか一方は正しくって、もう一方は間違っているということになるのです。しかし、これは論理ではなく心理の問題なのです。それぞれ、お互いの立場に立てばどちらもが正しいということになりますよね。
 自分の経験というレンズを通して何でも見てしまうとそれが、いかにも見えるままが正しい世界になってしまいます。しかし、そうではありません。それは、自分というものに条件付けをし、世界を見ていることなのです。私たちはそんな風にして、人を見、そして人を蔑んだり、さばいたりしてしまっているのではないでしょうか。自分の経験や思い込みという危うい判断で。
 イエスさまは言われました。
 さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
と。
 人間関係の中で多くの問題は。こうした見方つまり偏見から起こるのではないでしょうか。そして、それは偏見だけではなく傲慢であり、決して主の喜ばれる態度ではありません。
 私たちは、簡単に自分と違う考えの人や違った行動をする人を裁いてしまってはいませんか。少し傲慢になってしまってはいないでしょうか。自分自身の目の中の梁に気づいていないのではないでしょうか。 
 今日、主が私たちひとりひとりの目の中の梁に気づかせてくださるように祈りましょう。そして、主の御前へりくだって、主の恵みを受けようではありませんか。私たち皆、一方的な恵みによって、愛によって、罪赦されたものであり、元罪びとなのですから。                     M.H