2016年, 8月のブログ

2016年8月28日 

~ 何をしてほしいのか

 今日は恒例の夏まつり礼拝!みんなでいっしょに、天地をおつくりになられた神さまをほめたたえ、礼拝し、与えられたこの日を共に喜び、楽しみ、しつこい暑さもぶっ飛ばしましょう。
 私たちを愛してくださり、すべての咎を赦してくださり、すべてのやまいをいやしてくださり、いのちを与えてくださり、一生を良いもので満たしてくださり、そして、いつも私たちを守ってくださる神さまを、心からの賛美と踊りを持ってほめたたえましょう。
 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
 今年も日本中あちらこちらで夏まつりが開催されました。多くの人たちが、そんなまつりを楽しみました。先月もこの地域の神社の祭りがありました。たくさんの方が、夜店を楽しみ、そしてその雰囲気を満喫しておられました。そればかりか、境内に人が群がり、何かのお願い事のようなことをしておられました。楽しそうに見えて、何の悩みもなさそうであっても、心の奥底では不安を抱え、いやされたいという思いを持ち、本当に飢え渇きを覚えている、そして何かにすがろうとしている、そんな多くの人たちを見ていたら、むなしくなってしまいます。そこには、本当のいのちはないのに、きっと多くの人たちは、自分が今あがめている神さまが、どのようなものであるのか知ってはいないのです。口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、その口には息もない、そんなむなしい偶像に頼っている人々。
 今日、私たちが、喜び、祈り、感謝をささげている神さまは、私たち一人ひとりを愛してくださり、一人ひとりを名をもって呼んでくださるお方です。私たち一人ひとりをしっかりと覚えてくださり、その存在を尊いものとしてくださり、いつも共にいてくださる方です。夏祭りと、お正月だけ頼りになる?そんな頼りない方ではありません。いつも、どこにいても私たちを決して、見捨てず、守ってくださるお方なのです。イエスさまは、ある時、道端に座り、大声で叫んでイエスさまを呼ぶ盲人の乞食に、「何をしてほしいのか」とお言葉をかけられました。すると盲人は、目が見えるようになることを求めました。皆さんは今、イエスさまが「何をしてほしいのか」と声をかけて下さったら、何を求めるのでしょうか。盲人の乞食は、願った通り目が見えるようになり、イエスの行かれるところについて行きました。
 今日、皆さんがここにいるのは決して、偶然ではないのです。全能の神さまが皆さんお一人ひとりを招いてくださり、「何をしてほしいのか」と声をかけてくださっているのです。その声に応答しましょう。                M.H


2016年8月27日 

~ 教会って

 「人間の第一にして、最高の目的は、神の栄光を現し、かつ永遠に全く神を喜ぶことである。」(ウエストミンスター信仰告白)これは個人とともに教会としても真理です。
 教会って何でしょう?信者が集まっているところ?それ以上に何か深い意味があるんでしょうか。
 もし、友人や家族の方に教会って何?って質問されたなら、どのように答えるでしょうか。「皆が集まって、歌うたって、お話聞いて、祈りあって、あとは・・・とにかく楽しいところ。」教会ってどんな所?ならそれでいいかもしれませんね。
 私たちは、こうして毎週礼拝に集っています。教会に属しています。しかし、教会って何?って聞かれたらどうでしょうか。教会の本質は、そして、教会の使命は。
 今日、いっしょに考えてみましょう。教会とは何かということをいっしょに考えることによって、ただ知識としてそれを理解するのではなく、また、それを人にうまく説明できるようになるためではなく、私たちの信仰がより堅くゆるぎないものになり生き方が変えられること、そして、教会の本質を知り、その使命を知って、そこに属する者として、より教会を愛し、教会の使命を果たすものとして、私たちは成長したのです。そして、私たちのそのような生きかたによって、世の人々が教会を通して、神さまをあがめ神の栄光に拝するものとなっていくと確信しています。

 教会という言葉は呼び出されたものの集まり(ギリシャ語のエクレーシア)という意味です。教会は単なる建物や組織ではないのです。また、教会は、キリストの体であり頭なるキリストの指示のもとに互いに依存しあいながら共同体を形成しているものです。そして、教会は神の家族です。「クリスチャンは神の家族の一員です。同じ(キリストの血)によってきよめられ、同じ御霊によって生まれ変わりました。同じ(神の)都市の民であり、同じ主人のしもべです。」(ジョン・ホワイト)では、教会の使命は何でしょうか。今日いっしょに考えてみましょう。
M.H

~分かち合い・思いめぐらし
*メッセージであなたが語られたことを、今週、誰かに分
かち合いましょう。
*教会って何でしょう。
*今まで自分が考えていた教会と今日考えたことにどの
ような違いがありましたか
*教会の本質や使命を知ってあなたの生活の何がかわ
りますか
 


2016年8月14日 

~ あなたは私を愛しますか

 「ペテロってなんか面白いよな。3つ家建てるとか、わけわからんこと言うてた思たら、イエスさまに下がれ、サタン(ペテロがサタンではないけど)とか言われたりもしたし、イエスさまにどこまでもついていきます言うてたのに自分の身あぶなくなったらすぐ知らんとか言うて、逃げたし。」先日の我が家での会話です。そして結局「それでもイエスさまに、めっちゃ、愛されていたよな。イエスさまの愛ってすごいよな、あんなエラそうに言うてたのに、いざとなったら3回も知らんとか言うて、そんなええ加減なやつ僕らやったら赦さんで、ほらみてみ、やっぱり。もう知らん。」
 主はいつもそばにいて下さるのです。失敗していても、人生がみじめに思えるときでも、失望の中にあっても、喜びの時も、悲しみの時も、ペテロのように主を私たちが知らないと拒否しても・・・聖書の中でよみがえられたイエスさまが、ペテロに問いかけられました。イエスさまが十字架にかかられる前にほかの弟子たちがたとえイエスさまを見捨てたとしても私だけは絶対にイエスさまを見捨てないでイエスさまについていくと豪語していながらいとも簡単にイエスさまを見捨てて逃げてしまった。そんなペテロにイエスさまは「あなたは私を愛しますか」と。その問いかけをペテロはどんな思いで聞き、そしてそれに答えたのでしょうか。その時はもうペテロも自分の弱さを知っていました。イエスさまのために命を捨てるそんな愛も、イエスさまに従っていくそんな力も自分のうちにはないということを悲痛な経験を通して知っていたのです。 
 イエスさまは、シモン・ペテロという一介の漁師であったひとりの人間を、取扱い、成長させ、弟子と成させられたのです。ペテロ
は、いろんな特長を持っていました。けれど、また多くの欠点も持ったそんな人物でした。しかし、主はそんな粗雑な材料を用いて大使徒をおつくりになられたのです。
 今日、主がどのようにペテロを取扱われたのかをいっしょに見ていきましょう。そして、私たちを取り扱ってくださり、成長させ、つくりかえて下さる神さまに自分自身をゆだねていこうではありませんか。神さまは、私たちがどんなところにあったとしても、どのような人生を今歩んでいるとしても、失敗したり、つまずいたり、ペテロのように神さまを拒絶し、見捨てて逃げ出していたとしても、いつもそばにいて下さるのです。そしてその語りかけに、私たちが謙遜に、従順に従っていくなら、私たちを成長させて下さり、用いて下さるのです。                         M.H

~分かち合い・思いめぐらし
*メッセージであなたが語られたことを、今週、誰かに分かち合い
 ましょう。
*主があなたをどのように取り扱ってくださったか思い巡らしてみま
 しょう。
*あなたの召しについて考えてみましょう。
*主に従って行くために捨てなければならないものはありますか。
*主があなたに、愛をもって悔い改めを示してくださっているなら、
 ためらわず祈りましょう。
“神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。”

 


2016年8月10日 

~ 創世記21章1~21

 さあ旅の続きです。今日もいっしょに創世記から、主が私たちに語ってくださることに期待して、主に聞いていきましょう。そして、自分を欺いてただ聞くだけのものにならず、み言葉を実行していく人でありたいものです。

 今日は、創世記の21章です。前回に23節から34節を見ました。1節から22節を見ていきましょう。
アブラハムを選び、契約を結ばれ主は、アブラハムを通して、ご自身の計画を成就するためにアブラハムを守られます。いくらアブラハムが不真実であったとしても主は約束に誠実なお方なのです。前回それを見ました。
 主は約束されたとおりに、仰せられたとおりに事をなされます。私たちに対して、誠実で忠実なお方です。主に信頼して歩もうではありませんか。そのような主に対してアブラハムは、神が彼に命じたとおりに事をなします。私たちも主に従うものとして従順でありたいものです。
 そんなアブラハムの人生ですが、私たちの人生も同様に、自分の手を超えたこと思いを超えたことが満ちています。100歳になって、イサクが生まれました。それは主の恵みによって主の約束通りに与えられたのです。どれほどの驚きだったでしょう。感激だったでしょうか。しかし、喜びばかりではなかったのです。生まれたら生まれたで、悩みがやってきました。先に生まれた腹違いの奴隷の子イシュマエルとの間で、微妙で複雑な人間模様が展開されていきます。その結果、その二人の子孫は、お互いに相容れることなく、歴史的に対立することとなってしまったのです。
 イサクは神が約束されて生み出されたものです。一方イシュマエルは、人間が自分の思いで生み出したものです。このことは、私たちの今の生き方の中でどのように考えたらいいのでしょうか。今日いっしょに考えてみましょう。
 主の約束、計画を、自分の手によって実現しようとする(できると考える)のではなく、約束のものを、主に期待し、忍耐して、待つものでありたいですね。               M.H

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。                  ピリピ1:6
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。         へブル10:36