2016年, 11月のブログ

2016年11月27日 

~ 受け入れられました

  ご存知ですか?自分自身が受け入れられているということを。自分が受け入れられていない。大なり小なり拒絶を感じているという方はたくさんいらっしゃるし、またその拒絶は人間の心が抱える最も深い傷といえるでしょう。
 世間では、査定や評価という仕組みが社会のいたるところにまで浸透していってしまっているような気がします。かつては、人生を決める査定といえば高校入試、大学入試、そして入社試験くらいのものだったのではないでしょうか。しかし、今は入試が幼稚園、小学校の時にまで繰り上がり一方では昇進、再就職と様々な査定が定年の後までも続いています。そんな人生の中で、私たちも何度も不合格の査定を受けるし、また受けてきたのではないでしょうか。ぶっちゃけていえば、不合格とは「あなたは私たちの組織には相応しくない」「あなたの存在は私には不必要だ」というメッセージを突き付けられ、それにさらされているのです。存在そのものを不要だというふうに烙印を押されているようなものです。私たちは幼い時からそのように、そんな烙印を押され続けてきて、心に大きなダメージを受けているのではないでしょうか。そればかりか、まだ母親の胎内にいる時からも母親の態度によって、拒絶を味わいそんな拒絶の霊をもって生まれてくるのです。そのように、私たちは常に拒絶にさらされ、自分の存在そのものを不要と感じてしまっている方も多くおられるのではないでしょうか。しかし、神さまは私たちの存在を良しとし、その存在だけで受け入れてくださったのです。私たちが何かできたからとか、査定にかなったからといった条件付きではなく、ただ受け入れてくださったのです。しかも、ただ受け入れてくださっただけではなく、私たちが持っていたまた持つ拒絶のすべてを、イエスさまはご自身に負って、十字架にかかってくださったのです。私たちの拒絶をイエスさまが耐え忍んでくださり、それによって私たちは受け入れられたのです。もう私たちは拒絶を感じる必要はないのです。世間がどのように私たちを評価し、査定し、不合格の烙印を押そうとも私たちはイエスさまの十字架の御業によって、完全に神さまに受け入れられているのです。私たちひとりひとりに相応しい場所があるのです。そして、あなたの存在は神の国に相応しく、神の家族に必要なものなのです。M.H
                 
分かち合い・思いめぐらし
*メッセージであなたが語られたことを、今週、誰かに分かち合いましょう
*あなたが拒絶を感じる時はどのような時ですか
*神の家族の中で、あなたの存在はどのようなものなのでしょうか
*宣言しましょう。「イエスは私の拒絶を耐え忍び、それにより私は受け入れられた。」
  「私の拒絶感は取り去られました。私は受け入れられています。」


2016年11月20日 

~ 豊かなものです

 ご存知ですか?自分が富んでいることを。世間では、貧困ビジネスだの、貧困社会だのと貧困という言葉がやたらと幅を利かせて、私たち多くのものが貧しいもののように煽り立てられ、そのようなものと感じてしまっています。もちろん、これは世間での話で、経済的な問題の事ではありますが、それも含めて私たちが富んでいる、豊かなものであるということをご存知でしょうか。
 私たちの貧しさは、イエスさまがすべて引き受けてくださり、私たちに、恵みによって、ご自身の富を与えてくださり、私たちが富んだものにされているという事実を私たちは、自分のこととして真剣に受け取っているでしょうか。
 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。2コリント8章9節
 イエスさまは神であられるのに、神のあり方を捨て自分を無にして人間と同じようになってくださり、自分を卑しいものとして十字架についてくださったのです。それはイエスさまご自身が私たちの貧しさを負ってくださり、それによって私たちが神の豊かさにあずかったのです。私たちが富むものとされたのです。
 さて、本当の貧しさとはどのようなものなのでしょうか。そして本当に富んでいるとは、豊かなものとはどのようなことなのでしょうか。今日いっしょに考えて見ましょう。
 イエスさまが、ご自身が富んでいたのに貧しくなり貧しかった私たちに与えてくださったその富んだ生き方、本当に豊かな生き方とは、神の御前に、また、この世界の中でどのように生きることなのでしょうか。パウロやモーセは、どのようなに生きたのでしょうか、それを通して考えて見ましょう。
 そして、私たちも、神さまが恵みによって与えてくださったその素晴らしい富の中で豊かに生きようではありませんか。私たちは富んでいるのです。決して貧しいものではありません。
                              M.H

分かち合い・思いめぐらし
*メッセージであなたが語られたことを、今週、誰かに分かち合いましょう。
*あなたは、今の境遇の中で満ち足りていますか。
*満ち足りているなら、神に感謝を捧げましょう。もし、満ち足りていないと感じているなら、何がそうさせているのかを神さまに聞いてそれをイエスさまに差し出し祈りましょう。
*宣言しましょう。
「イエスは私の貧しさに耐え、それにより私はイエスの豊かさにあずかった。」
「私は貧しいものではありません。富んでいます。豊かなものです。」    


2016年11月17日 

~ 突風・平安

 今日は子ども祝福礼拝です。子どもたちを祝福し、その成長を感謝し、またこれからの人生の導きのためにいっしょに心を合わせて祈りましょう。
 イエスさまは言われました。
 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものだからです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることは出来ません。」人々が子どもをイエスさまのところに祈ってもらうために祝福してもらうためにつれて来ようとしているのを見て、弟子たちがその人たちをしかったときに語られたお言葉です。
 イエスさまは、子どもたちを愛しています。祝福したいと思っておられたのです。そして、今もそれは変わりありません。私たちの身近な周りを見ても、多くの子どもたちが、暗闇の世界の束縛の中で苦しんでいるのではないでしょうか。闇の世界の力が子どもたちを、イエスさまのところに来させないようにと必死に抵抗し、子どもたちを止めているのです。今日私たちは、ここに来れた子供たちのために祈りますが、それとともに、ここに、来れなかった子どもたちのことを覚えていっしょに祈りましょう。今日だけではなくもちろん毎日。私たちは子供たちがイエスさまのところに来ようとしているのを止めようとしている悪の力を打ち砕いて、子どもたちが自由にイエスさまのところへ来ることが出来るように私たちは祈っていかなければならないのではないでしょうか。昨今のニュースを見ていると多くの子どもたちの痛ましい事件が毎日のように報道されています。今こそ教会は一つとなって子どもたちのために祈る時です。子どもたちの祝福を祈りましょう。
 さて、突然、話が変わりますが、私たちの人生も突然、嵐の中を通って行かなければならないような、そんなときもあるのです。そして、そんな嵐の中で私たちはどのような態度でそれをやり過ごそうとしていますか。あるいはそこで、取り乱し落ち着きのない日々を送ってはいないでしょうか。イエスさまは嵐の中で、眠っておられました。今日、いっしょに、突然の嵐に見舞われた弟子たちの話を通して、私たちの信仰について、そして、主にある平安について考えてみましょう。そしてその平安をしっかりと受け取りましょう。     M.H


2016年11月12日 

~ 主と共に

 先週の礼拝メッセージは復活のイエス様に出会った弟子達、その後の働きのために聖霊様が必要だったという事について学びました。今日のメッセージは別の角度から、私たちには神様からの啓示(Revelation)が必要という事を見て行きたいと思います。
 復活のイエス様に出会った弟子達、その様子はあまり聖書に書かれていません。私たちが気持ちを読み取れるのはトマスではないかと思いますが、あまりに弟子達の感動が描かれていないのはどうしてでしょうか。
 ペテロはエルサレムを離れガリラヤ湖の湖畔で漁に出ます。ペテロにとって復活のイエス様に出会った事は大きな経験ではなかったのでしょうか。何故、漁に出たのでしょうか。
 初めの愛という言葉があります。どうして初めの愛なのでしょうか。愛は変わらず続かないのでしょうか。
 イエス様はトマスに言われました。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 トマスが信じなかった事、よくわかると思います。
 トマスを支配していた物は、感情であり、自分の持っている常識であり、価値観だったと思います。最初に墓に着いたマリア達の報告を聞いた使徒達も全く同じ反応でした。
 「この話はたわごとと思われたので、彼らは女達を信用しなかった」
 みんな、イエス様からよみがえりの事を聞いていたにも関わらず!
私たちは日常生活を送っています。毎日がイエス様との新しい出会い!満たされて、満たされて、感謝!感謝!感謝!という生活を送られている方もおられるかもしれませんが、大多数の方は変わらないと思われる日常を過ごされていないでしょうか。 
 イエス様と出会って救いを受けたあの日々、何もかもが輝いて見え、自分の周りにあるものは祝福ばかりに思える。遠い出来事のように感じている方はおられませんでしょうか。
 未だサタンが支配権を握っているこの世にいる私たちは、この世の影響を受けて過ごしています。うっかり油断すると、この世の常識、この世の価値観、この世での経験に縛られ、イエス様を見失ってしまいます。
 この世で私たちが違うのはイエス様が一緒にいて下さるという事だけです。よく言われる事ですが、クリスチャンでなくても、クリスチャン以上に良い事、人々のため奉仕されている方は沢山います。共にいて下さるイエス様と一緒に働かなければ、私たちはこの世の人々と働きにおいてはなんら変わらない者になってしまいます。
 ペテロが漁に出たのはイエス様と一緒に働くための啓示(言い換えれば「自分のなすべき目標」)がなかったため、今までの生活に戻るしか道がなかったためだと思います。愛が変わるのも、日常生活に潤いがないのも、イエス様からの啓示がないから、この世の価値観や自分の常識で決めてしまうためだという事ができると思います。
 では、イエス様からの啓示を得るにはどうすればよいか。メッセージの中でご一緒に学んで行きたいと思います。
 皆様の新しい一週間の歩みに主の豊かな祝福がありますように!                               M.S


2016年11月5日 

~ 満たされ、あふれだす

 ペテロとその仲間たちは、再び漁に出かけて行きました。復活されたイエスさまに出会った後なのに。しかし、ペンテコステの後には、彼らはもう2度とそのようなことはありませんでした。彼らの中で何が起こったのでしょうか。
 イエスさまがよみがえられた日の夕方、彼らは間違いなく復活されたイエスさまに出会いました。そして、イエスさまは、彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と語られました。彼らは確かに聖霊を受けたのです。イエスさまの聖なる息を受けたのです。そして、新しい被造物とされたのです。
 彼らが受けたものは、聖なる、永遠のよみがえりのいのちです。朽ちないいのち、圧倒的な勝利のいのちです。ヨハネは、のちにそのことについて、「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。」と言っています。同じように私たちもイエスさまを主であると口で告白し、心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じて救われました。私たちのうちにあるいのちは負けることがありません。それは、圧倒的な勝利のいのちです。すべての悪に打ち勝つのです。最高のことです。何と素晴らしいことでしょう。
 イエスさまを主と告白していた弟子たちは、イエスさまがよみがえられたその日、神がイエスさまをよみがえらせられたことを信じたのです。そして、救われ聖なる永遠の復活のいのちを受け取りました。

 しかし、彼らはまだ、働きのための方向性に欠けていました。その後、幾日も経たないうちに、ペテロはが再び漁に行きました。弟子たちはなお、神が彼に持っておられる計画を知らなかったのです。そして、弟子たちはエルサレムの町で何のインパクトも与えませんでした。エルサレムは同じ状況でした。彼らは宮で毎日神を賛美し祝福していましたが、エルサレムには何の変化もありませんでした。
 しかし、彼らは、イエスさまの復活から40日後のペンテコステの日を境に変えられたのです。そのとき彼らは約束された聖霊を受けたのです。イエスさまは、復活から昇天までの間に彼らに言われたことは、「あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」それは言いかえれば「まだ、受け取るべきものがある。すべてを得たと思ってはならない。」だから、彼らはそれを待ち望みそしてその約束を受けたのです。皆さんは、受け取るべきものを本当に受け取っているでしょうか、その約束の聖霊さまを受けていますか。今日、私たちもその約束の聖霊さまを受け取ろうではありませんか、渇いて、満たされ、そしてあふれだすまで聖霊さまを求めましょう。            M.H

 


2016年11月5日 

~ 創世記23章

 いっしょに歩んできている創世記の旅。今日は、23章です。
 前回は、愛するひとり子イサクを捧げるアブラハムを通して、神の命令に無条件に従い、創造主に対する絶対的信仰と愛を示す、そんなアブラハムの生き方そして、神と同じ痛みと苦悩を2000年後のゴルゴタの丘に先んじて味わい、神の友と呼ばれたアブラハムをいっしょに見て、そこから私たちも神の大きな愛を受け取り、そこに信頼して、従順に歩むことをいっしょに考えてみました。
 今日は、故郷カルデヤ人の地ウルを出て、各地を転々とし、苦楽を共にしてきたアブラハムの伴侶サラが、年老いてから生まれた、わが子イサクがまだ結婚もしていないのに死んでしまいます。
 65歳で、夫アブラハムといっしょにカランの地を出て、90歳で約束された子イサクを生み、そして127歳で死んだそんなサラの生涯を見ていきましょう。
 サラは、ある意味では、夫についていくしかしょうがない、それ以外に道のない、そんな人生であったと言えるでしょう。そして、そんな人生を神からの祝福の人生として生きました。
 夫アブラハムが信仰の父であるならば、サラは信仰の母とも呼べるのではないでしょうか、サラは「女性の信仰」と言うよりも、男女の違いを超えた信仰があったそんな人でした。
 波乱に満ちたサラの生涯を振り返ってみて、決して目立つことのないところで耐え忍ぶこと、それを通して、神さまの奇跡的な働きかけや介入を実際に直に味わい知り、神さまの大いなる祝福の中を生きることをいっしょにみてみましょう。サラは、耐え忍んだ人でした。また夫を信頼するということにおいて神さまに対して忠実な人であり、従順な人でした。そのようなサラの生き方は今の時代においても、また、どのような状況においても神さまに忠実に歩むとはどういうことかを考えさせられるのではないでしょうか。今日いっしょにそんなサラの生涯を振り返り、そこから語ってくださる神さまに期待しましょう。                    M.H

分かち合い・思いめぐらし
*メッセージであなたが語られたことを、今週、誰かに分か
 ち合いましょう。
*今あなたが直面している、耐え忍ばなければならない問
 題はありますか。
*もしあるとしたらどのような態度でそれに対処しますか。
*あなたが今までの人生の中で経験した神さまの奇跡的
 な介入に思いをめぐらし感謝を捧げましょう。