2017年, 3月のブログ

2017年3月19日 

~ 創世記27章

 久しぶりに創世記の旅をいっしょに楽しんでみましょう。今日は、25章の終わりと、27章です。
 前回は26章イサクの争わない生き方をいっしょに見ていきました。覚えておられますか?イサクの人生は、アブラハム契約を継承する人生でした。主は、イサクにも祝福を約束されていたのです。その祝福はイサクからヤコブへと受け継がれていくものでした。そして、イサクはそんな祝福を約束通り受けた人でした。イサクは主の約束を信じて行動し、そして祝福を得ました。主は契約通りにイサクを祝福されました。また、イサクは、争って勝ちをもぎ取るよりも、一歩身を引いて、ひたすらに神に信頼し生きました。そんな生き方が勝利につながったのです。
 祝福の契約は継承されていきます。アブラハムからイサクそしてエサウとヤコブへと。その三代のそれぞれの信仰のあり方はどのようなものであったでしょうか。祝福の契約の重要性を悟るものとそれを軽んじるものとでどのような違いが生まれるのでしょう。最も大切なものが何であるかをしっかりと見抜く目を持つことは私たちにとってとても重要なことです。そして、また私たちは、最も大切なものをどのように受け取るのでしょうか。
 エサウとヤコブそしてイサク、またその家庭で起こった出来事、兄弟がそれぞれ聖書で重んじられている長男の権利を軽んじたり、奪い取ったり、そんな兄弟の軋轢は父のイサクや母リベカの手を超えた出来事でした。親だからと言ってどうしようもないことでした。しかし、そんな親の理解を超えた出来事の一切は神の御手の中にありました。神はそんな兄弟、親子の関係を包み込み大きな神の国の歴史を展開されます。神さまの摂理の世界があるのです。私たちの人生においても、私たちの手を超え理解を超えた人生に直面するでしょう。しかし、神さまの摂理が、御手がそこにあるのです。私たちは何を見て生きるのでしょうか。
                            M.H

 

*メッセージであなたが語られたことを、今週、誰かに分かち合いましょう。
*あなた自身の神さまとの個人的な出会いに思いを巡らしてみましょう
*あなたは、主の祝福の契約の重要性をどのようにとらえていますか
*最も大切なものを獲得するために、不正な方法ではなく何が必要でしょうか

 


2017年3月12日 

~ 主に交われば

 胸が熱くなった!心が燃えた!そんな経験を最近されていますか。私たちはどのような時に心が熱く燃えるような経験をしたり胸が熱くなったりするでしょうか?多くの皆さんは初恋の経験をされたことがあるでしょう。そんなときってなんか胸が、きゅんとするなんて言葉が使われたりします。そうです。自分が夢中になっているもの、大好きなもの、自分のすべてをかけているものに出会ったら私たちはそんな体験をするのではないでしょうか。
 皆さんイエスさまが大好きですか、イエスさまに夢中になっていますか。それともそんな胸が熱くなるような、心が燃えているような経験をここしばらく味わっていないとおっしゃられるのでししたら、少し考えて見ましょう。
 イエスさまは、どこにおられますか?イエスさまはどんなお方でしょうか?目は開かれているでしょうか?
 イエスさまが、十字架につけられ死んでくださり、三日目によみがえってくださった、その出来事の後、ふたりの人がイエスさまのことを論じ合いながら道を歩いていました。そこにひとりの人が現れました。イエスさまご自身です。しかし、ふたりの人は、イエスだとは気づいていません。そこで、イエスさまは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分についてかかれてあることを二人に話されました。聖書からご自分について書かれてあることを解き明かされたのです。彼らは、そんなイエスさまを引き留めました。そして、いっしょに食卓に着いたところで、イエスさまはパンをを祝福してさかれました。そこで彼らの目は開かれ、いっしょにいた人がイエスさまだとわかりました。その時にはすでにイエスさまは二人には見えなくなっていました。そのあと二人が話します。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」どうして彼らの心は燃えていたのでしょうか、いっしょに考えて見ましょう。私たちもいつも心が熱く燃えていたいものです。
                            M.H


2017年3月6日 

~ まっすぐに

 昨年秋から、デレックプリンス先生のメッセージを日本語に吹き替える作業に関わらせていただいています。たくさんのメッセージがあり、とても恵まれています。その語られるところは、超直球で、まったくもって痛快です。
 印象に残っているものの一つは、みことばを宣言することです。
 「宣言は、霊的戦いのことばであり、神のことばの権威を、自分の生活の中、教会生活の中、政治的状況の中など、さまざまな状況の中に解放することです。神の力を解放する必要がある、数え切れないほどのさまざまな状況があります。あなた自身の生活やあなたの教会、あなたの国など、何であれ、その状況の中に神の力を解放する効果的な方法は、宣言以上にはありません。」
 私は、神のことばを、毎日宣言していただろうか?どれほど自分のものとしているだろうか?みことばが真実であるという事実を本当に信じ切っていたのだろうか?と、そんな思いが心の中にふつふつと浮かんできました。
 そう、確かにみことばを宣言してはいる、主から与えられ、自分のものとして握っているみことばがある。けれど、心の底からそれがなる!と信じ切っていただろうか?心のどこかで、みことばはそう言ってるけど、でもな・・・という思いがあったことは否めませんでした。悔い改めるチャンスでした。そして、悔い改めました。
 みことばを信じ切ることができないのは、私に信仰がないからなのか?__信仰は与えられるもの__そうです、主に求めたらいいのです。主が与えてくださるものです。求めましょう!そうすれば与えられるのです。とことん主!とことんみことば!主のみ!みことばのみ!です。
 主を求めましょう!そして主が語られることを宣言し、行ないましょう!主は素晴らしい!良きお方です!
  
                        Mrs. M.H