2017年, 4月のブログ

2017年4月30日 

~ 祭りの終わりの大いなる日に

 昨日は、恒例のジーザスまつり、皆さんお疲れ様でした。
 天候にも恵まれて、たくさんの人でにぎわったとまでは、いきませんでしたが、昨年来てくださった方やその方の友人、近所の方、通りすがりの方、そして、私たちJFの家族が共に楽しいひと時を持つことが出来ました。ありがとうございました。
 そして、今日はGCW福音中心礼拝です。いっしょに、私たちの主を賛美し心からの礼拝を捧げましょう。今日、はじめていらっしゃった方や、まだイエスさまのことがよくわからない方、素晴らしい主イエスさまとお出会いしましょう。イエス・キリスト以外に私たちの救いはないのです。
 私たちの、飢えた心を満たすことのできる方はイエスさましかないのです。どれほど物質に恵まれたとしても、どんなに楽しく一時的に過ごしていたとしても、私たちは、またいつかは渇き、満たされない思いの中で生きなければならないのです。そんな、私たちを満たすことが出来る唯一の方がおられるのです。 すべての問題に解決をもたらしてくださる方がおられるのです。今日、私たちひとりひとりにイエスさまが、触れてくださり心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようにしてくださることを期待しましょう。
 祭りの終わりの多い大いなる日に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」とイエスさまは立って、大声で言われました。さあ、今日私たちのその声を聞いてその声に応答しようではありませんか。私たちを満たすことができるのは、イエスさまだけなのですから。
 あの有名なパスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」と言いました。真の神(創造者)との交わりによってしか埋めることのできない私たちの心の空洞を埋めて下さるために、神の御子イエス・キリストは天から人となって下って来てくださいました。そして、神と私たちの交わりの障害となっていた人間の罪を取り除くために、罪人の身代わりとなって、十字架の上で神のさばきを受けてくださったのです。神が遣わされた、救い主であられるご自身の御子イエス・キリストだけが、私たちの心を喜びと平安と希望で満たすことのできる方なのです。
                              M.H                                               


2017年4月27日 

~ 聖霊に励まされて

 復活の主に出会って、弟子たちに希望の光が差し込みました。そして、主は弟子たちに言います。約束のものを待ちなさい、と。もうひとりの助け主聖霊さまを送るから、と。果たして、その通りに弟子たちの上に聖霊さまが下って来て、彼らは力を受け、その後は力強く主を証し、主を述べ伝えて行きました。まさに地の果てにまでも。
 神さまの約束は成就するのです。神さまのご計画には失敗はないのです。そして教会が、築き上げられ信者の数は増えて行ったのです。
 先週、イースターをいっしょにお祝いしました。復活の力にあずかり、その力で生きることが出来ることは何と幸いなことでしょう。主に目を上げ、自分自身を知って、今できるベストのことをなすとき、主の素晴らしい力が私たちを解放してくださるのです。
 また、先週は、素晴らしい時でした。洗礼式も持ちました。ひとりの人が救われ、神の家族に加えられたことは、天での大きな喜びであったでしょう。そして、私たちこの家族にとっても大きな喜びの時でした。
 毎週、そんな喜びをいっしょに味わっていきたいものです。人が救われ神の家族に加えられること、こんなに大きな喜びはありません。天の父なる神さまは、決して人が滅びることを願ってはおられません、すべての人が救われ、永遠の命を持つことを願っておられるのです。そのために、愛するひとり子を私たちに与えて下さったのです。
 私たちも、私たちの愛する家族や友人にイエスキリストにある救いを述べ伝えて行こうではありませんか。使徒の働きの時代のように。そして、信者の数はどんどん増えていくのです。ハレルヤ!
 教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。
とあります。どのように増えて行ったのでしょうか。どうして、増えて行ったのでしょうか。今日いっしょに考えて見ましょう。M.H                                               


2017年4月22日 

~ ところが!

 イエスさまは、墓にはおられません。確かにイエスさまはよみがえられたのです。それは、単なるでっち上げ、作り話ではありません。復活は歴史的な事実なのです。もしそうでなかったら、教会は存在していなかっただろうし、私たちの信仰もあり得ないものだったでしょう。
 イエスさまは暗い墓の中にとどまってはおられませんでした。
 ラッパが鳴り響き衛星放送のテレビクルーが墓を取り囲み大観衆が見守る中でイエスさまはよみがえられたわけではありません。復活の朝は、静かにだれにも知られず(数人の番兵たち?以外)、そうです、十字架につかれるまでイエスさまといっしょにいた弟子たちも知らない間にしずかにやってきたのです。しかし、その十字架の死と復活は、全世界をそして、あなたの人生をひっくり返したのです。

 今日は、イースターです。イエスさまの復活の事実を覚えて、よみがえられたイエスさまを共に礼拝しましょう。

 イエスキリストは、私達の罪のために十字架についてくださり、ご自身のいのちをささげてくださいました。その時、それまでイエスの教えに励まされすべてを捨ててイエスに望みをおいて従ってきた人達は、十字架の上に『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と叫ばれ、完了したと言って息を引きとられたイエスを見て、埋葬のために包帯を巻かれ油を塗られ、暗い墓の中に納められたイエスを見て何を感じ何を思ったのでしょうか?それは彼らにとって希望が、夢が、死とつながれた日だったのではないでしょうか?
 ところが、それから3日後、復活の朝、女たちは目を上げました。自分が、主のためにできることをしました。自分自身の弱さも問題も知っていました。女たちが墓に行ってみると墓を蓋していた石が転がされ、そこは空っぽでした。イエスキリストは決して死とつながれたままではなかったのです。大逆転!大勝利を経験し主の復活を告げる使命を受けたのです。
 私たちも今日、自分の人生を蓋している石が取り除けられ、自分をつなぐ墓から解放されるのです。そして主のために生きようではありませんか。      M.H                                 


2017年4月11日 

~ つながれた子ロバは?

 ホサナ!ホサナ!主よ救ってください!耳の中に残っている大歓声。でも、今日は少し様子がちがう。誰ひとり、こっちを注目もしていない。それどころか、今日はじゃまものあつかい。いったいどうしたんだ。この間の歓声はなんだったのだ。何がちがうというんだ。この前は、初めてで、おどおどしていたのに。今日は、きちんと準備して、自信を持ってやってきたのに、どうしてみんな僕を見てくれないんだ。今日、ロバの子はひとり?いや一匹で、ついこの前、イエスさまと入っていった、エルサレムの城壁の中へとやってきました。あのときの興奮を忘れられずに。しかし、彼の背中に、今日はイエスさまはいません。
 イエスさまは、私たちを用いてくださいます。私たちがイエスさまと、ともに歩んでいくなら・・・私たちの特技や、私たちの立派さや、私たちの行いで、私たちを用いてくださるのではなく、私たちがただイエスさまをお乗せし運ぶとき、こんな小さな、何も出来ない、経験のないものでも用いてくださるのです。あなたのつながれたロバ(小さなもの、未熟なもの。あなた自身かも)をイエスさまに差し出すときそれを、通して人の心の中の城壁にまで入っていかれるのです。大歓声に迎えられてエルサレムへと入っていかれたように。
 誰かがやってきて自分の持ち物であるロバの子を解いているのを見たら、持ち主はいったいどうするでしょうか。ふたりの弟子は、突然にやってきて勝手に人の持ち物を解いていたのです。
 「主がご入用だから」それを聞いて持ち主は、そのロバの子を引き渡しました。
 

 今日、あなたにも語っておられるのではないでしょうか。あなたのロバ(持っているもの。あなた自身)を解きながら、「主がご入用なのです」と、私たちは、その働きかけに対してどう応答するのでしょうか?今までどんな風に応答してきたでしょうか?
 神さまが、求めておられるのがわかっていながらも、わがままで差し出せないものがあるかもわかりません。今までにも差し出すことを躊躇して、せっかくのチャンスを逃してしまったこともあるのではないでしょうか。また、あるときは主の働きかけに答えて、喜んで差し出したことが用いられ、主の栄光を見たこともあるでしょう。そして、本当の満足感を味わったことが。あるいは、今、差し出したものがこれから先どうなるのかわからないけど用いられると期待していることがあるのではないでしょうか。今日、主がご入用なのですと語られたなら喜んで差し出しましょう。
 主に用いられた多くの人たちは、それぞれのロバを喜んで主に差し出しました。神さまはそれを用いて城壁の中へと入っていかれたのです。神さまは、今あなたの差し出すロバに乗って、新しい城壁の中へと入って行きたいと望んでおられるのです。
私たちが、私たちにあるもの(私たち自身)を主に差し出して、主がそれを用いてくださらなければ、持っているものがどんなにすばらしいものであって、自分の力でそれを用いようとしても、冒頭のロバのような経験しか出来ないのです。しかし、逆にどんなに小さなものでも、主のご入用に差し出すなら、主はそれを使って、人々の心の城壁の中へと進んでいってくださるのです。
                                 M.H


2017年4月2日 

~ いま、どこを歩んでいますか

 4月になりました。年の始めと違って、新しい生活や今までとは違った環境を迎える方も多いと思います。この時期は、自分や周囲との関係を見つめ直すよい機会ですね。
 今日は、「放蕩息子」の話を中心に、いま自分はどこを歩んでいるのか、神様とは、周囲とは、をご一緒に考えて行きたいと思います。
 「放蕩息子」の話はルカ書に出てくる例え話です。いきなり二人の息子の弟の方が「財産を分けて下さい」とお父さんに言う所から話は始まります。
 聞いた話ですが、アジアのある地域で聖書の話をするのに、この例え話を始めた所、この冒頭の部分で聞いていた人たちが「ひどい話だ」と怒り出してしまい、話を続けられなくなったそうです。この地域では財産の話をするのは親が死ぬ時だそうで、「財産を分けて下さい」と子どもが親に言うのは「死んでしまえ」と言っているに等しい事だということです。
 日本でもややこしい時代になって、遺言状のあるなしでの相続トラブルも聞きますが、子どもが「遺言状を書いて下さい」と親に言うのは、この地域と同じくなかなか言えないですよね。言えるような親子関係を築いておけたら幸いです。
 例え話に戻りますが、このお父さんはとても気前のいいお父さんで、弟だけでなく兄にも財産を分けてやります。ところがこの弟君、さっさと荷物をまとめ遠い所へ行ってしまいます。そこで放蕩に身を持ち崩して、もらった財産を使い果たしてしまいます。その後食べるものにも困るようになってから、ようやく我に立ち返り、父親の元へ帰って行きます。このお父さん、息子を自分から迎えに行き、彼の言う事に耳も貸さずに主役に仕立て上げ宴会を始めます。
 それを知って怒り爆発したのが兄でした。「ずっと仕えてきたのに小山羊一匹ももらった事がない!それなのに財産を浪費した弟には肥えた子牛をほふった!(あなたはなんという事をするのか!)」と文句を言います。
 この例え話は、第一に神様と自分がどんな関係にあるのかを教えられます。おねだりの真っ最中でしょうか? 神様と離れこの世を楽しんでいますでしょうか?八方塞がりで食べるものにも困っていますでしょうか? 神様の元へ帰ろうと決心したところでしょうか? 訳もわからないまま神様の祝福に浸っていますでしょうか? 神様の側にいるのに、全てを任されているのに、祝福を感じないままでしょうか?
 もし、今日自分はこの関係にいると思う事があっても、それは脇に置いて下さい。今日、ご一緒に受け取りたいのは、神様との関係がどうだこうだでなく、神様ご自身です。
 今日、全ての良い物で満たして下さる方を受け取りたいと思います。そして神様の栄光を現す者として一緒に働いて行きましょう。それが神様が私達に願っておられる事です。
 神様への賛美が、感謝が、喜びが満ちあふれる一週間となりますように。お一人お一人の祝福を祈ります!M.S