2017年, 6月のブログ

2017年6月25日 

~ 創世記29~31章①

 創世記の旅を続けましょう。ヤコブと共に歩んでいます。主に選ばれたヤコブは、アブラハムの祝福を受け継ぎました。ヤコブは家を出て不安な旅立ちをしました。前回に書いたように、ヤコブは人生の中でよく行き詰まり、八方ふさがりになって身動きが取れないそんな時ありました。しかし、いつも天が開かれていたのです。ヤコブは、のちに幸薄き人生であったことを自ら告白するような波乱万丈の生涯ではあったのですが、彼の頭上にはいつも天が開かれ、折々に光が差し込んでいた、そんな特別な天来の恵みに包まれた生涯でありました。
 今日は創世記29章から31章ラバンの家での20年をいっしょに考えて見ましょう。
 わが家に住んでいることが出来なくなって、親元を離れて一人見知らぬ地へと旅立たざるを経なかったヤコブにとって、新しい土地にたどり着きおじラバンの娘ラケルに出会い「口づけし、声をあげて泣いた」時の心境はどれほどのものだったでしょうか。しかも伯父にも口づけされ受け入れられ家に迎え入れられたことは、生活の基盤をなくしひとり不安を抱えた旅人の生活から解放され新たな生活の始まり、新しい旅の始まりでした。そして、その地での20年はヤコブにとって大変な波乱万丈の20年になります。しかしその所のそこかしこで主が働いておられたことを見ることが出来ます。その20年を通してヤコブはひとりから大家族に成長しました、物質的にも祝福されました。しかし、妻たちの争いやラバン家との葛藤の中で過ごさなければなりませんでした。主を信じつつも時には自分の知恵や細工に頼るそんな20年まさに忍耐の20年でもあったのですがそれを通してヤコブは練りきよめられ、造り変えられていきました。今日そんなヤコブの20年をいっしょに見て、主の祝福を受け取りましょう。              M.H

*メッセージであなたが語られたことを、今週、誰かに分かち合いましょう。
*あなたはどのような出会いを通して新たな生活が始りましたか?思いめぐらして感謝しましょう
*神が、あなたを見捨てたと感じたことはありますか。振り返ってそんな出来事を通して神がなしてくださったことを思いめぐらしてみましょう。
*人とのかかわりにおいて問題はありませんか?その人とのかかわりに、間に入って下さる神を見上げ祈りましょう                                               
                      


2017年6月18日 

~ お父さん

 今日は父の日です。私たちの理想のお父さんはどのようなお父さんでしょうか。そしてお父さん方(私も含めて)理想と現実のギャップはいかがなものでしょうか。
 ずーと、待っている父。見つけてくださる父。走りよって、抱きしめ、口付けしてくださる父。何も問われない父。赦し、受け入れてくださる父。豊かな父。自分のものを全部与える父。祝宴を開かれる父。喜び楽しまれる父。
 これは、聖書の中のふたりの息子のお父さんの姿です。放蕩の限りを尽くして帰ってきた息子に対してお父さんが見せた態度です。
 「うーん、このお父さんちょっと甘いんじゃないですか。」「放蕩を尽くした息子は都合よすぎるんじゃないですか。」と思ってしまいます。ずーと、お父さんといっしょにいながら、そんなお父さんのハートを見ることなく生きてきた、もうひとりの息子、兄はそう思ったでしょう。私たちも、確かにこんなお父さんって、と思ってしまうところがありませんか。しかし、私たちの天のお父さんはこのような方なのです。私たちの、自分の力や、自分の正しさ、行いで私たちを受け入れ赦してくださるのではなく、何も問わず、ただ私たちが、子どもであるというその存在だけで(行いではなく)、私たちを受け入れ赦してくださるのです。それなのに私たちも兄息子のように、そんなお父さんのハートを見ずに、いや知っているはずなのに、一生懸命働いて、自分の力で、自分の正しさで、自分の行いで自分の存在価値をお父さんに認めてもらおうとしてはいませんか。そして、うまく何かが出来たとき、自分を誇りつつお父さんに対して、私はあなたから何も受けていないとつぶやいたり、逆に自分がうまくいかなかったら、落ち込んでしまったりしてはいませんか。今日、私たちの天のお父さんについて、放蕩息子の話の中からいっしょに再確認しましょう。天のお父さんこそ私たちの理想のお父さんです。そして、そんなお父さんの愛の中にどっぷりと浸かって、その愛の中に安息しましょう。そして、その愛をいっぱいいただき、私たちも天のお父さんのようにつくりかえられようではありませんか。主に交われば・・・です。  M.H                                              
                      


2017年6月15日 

~わたしにあるもの

 ペンテコステの日に、弟子たちは約束の聖霊を受けました。あのペテロは、大勢の人の前で、大胆に説教をしました。人々は心を刺されました。ペテロは続けて、悔い改めてバプテスマを受け、聖霊を受けるようにと勧めました。そして、たくさんの人が救われました。初代教会が誕生しました。ペテロとヨハネは祈りの時間に宮に上っていきます。
 宮では・・・毎日、毎日、同じことの繰り返し、もう何年経つのだろう。まあ、ここにいたら、何とか生きてはいける。美しの門と呼ばれる宮の門の前に、今日も施しを求めて生まれつき足のきかない男が・・・
 しかし、その日はいつもと違いました。この男はおどり上がって立ち上がり歩き出したのです。飛んだりはねたりし賛美しながら宮に入って行ったのです。人々は、驚きました、あきれるほどに。
 この男に何が起こったのでしょうか。聖霊を受けて、弟子たちにどんな変化があったのでしょうか。宮での出来事をいっしょに考えて見ましょう。
 この男は求めていたものとは違うものをいただいたのです。男はその日の必要のための何かをもらえると思っていました。しかし、神さまが下さるものは男が願ったものではなかったのです。この男は何とか一日を生きていけるそんな施しを、あわれみを求めましたが、神さまが望まれたのは、この男が自分で立ち上がり、歩き出しそして、神さまを賛美するようになることだったのです。ペテロとヨハネはわかっていました。
 神さまは、私たちがほしいと思うもの願うもの以上のものを用意してくださっています。そして、それは私たちにとって最も素晴らしいものなのです。
 また、少し視点を変えてみたら、私たちのまわりの人々はどうでしょうか。ある意味でこの男のようです。そして私たちは、ペテロとヨハネのように、そのような人々にふれていくことが出来るのです。それは、ただ相手の求めるものにこたえるだけではなく、相手を自分に依存させるのではなく、自分自身で立ち上がって、神さまを賛美するものにかえられていくように。
 今、私たちには大胆さが必要です。憐れみのハートは大切ですが、変に相手に気をつかったりせずに、相手の必要をしっかりと見てイエスの御名によって人々を祝福していきましょう。
 今日、この話を通して、人が救われ変えられていくプロセスをいっしょに考えてみましょう。           M.H     


2017年6月4日 

~ とことん主!

とことん主!私たちの、スローガンです。いや、これは、私たちの生きざまなのです。決して、単なる掛け声ではないのです。
主との交わりは私たちにとって最優先なのです。主を慕い求めましょう。主に目を上げて主の御顔をいつも仰いで生活のすべての中に主を認めお迎えし生きていくのです。主に交わり、強くされ、聖くされ、熱くされようではありませんか。
今日はペンテコステの日です。聖霊さまを求めましょう。私たちは、聖霊さまに満たされて歩むものでありたいのです。
父なる神は、私たちのために、いつも私たちといっしょにいてくださる、もうひとりの助け主を送ってくださったのです。聖霊さまは、私たちのためにすでに与えられたのです。皆さん聖霊さまとの交わりを持っておられますか。いっしょに歩んでいますか。
聖霊さまに満たされましょう。いつも聖霊さまに満たされ続けていましょう。一度受けたから大丈夫ではないのです。いつも、いつもあふれるほどに満たされていたいのです。交わりとは、そのようなものではないでしょうか。一度出会っただけでは、交わりではありません。父なる神さまは、私たちに良いものを与えてくださる方です。子どもが魚をくださいと言うときに魚の代わりに蛇を与える父はいません。卵の代わりにサソリを与えるわけがありません。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
私たちは、求めたら与えられ、探せば見つかり、たたけば門が開かれるのです。
今日いっしょに、聖霊さまを求めましょう。いっぱいになってあふれるまで、生ける水の川があふれ流れ出すまで。とことん主!満たされて、強められ、聖くされ、熱くされて、遣わされて出て行こうではありませんか。    M.H