2017年, 11月のブログ

2017年11月21日 

~ 小さい?!
 
 イエスさまは言われました。
 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちのものだからです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに、入ることは出来ません。」
 今日、私たちは、特別に子どもたちを祝福して、子どもたちのために祈るときを持ちます。
 神の国はこのような者たちのものなのです。このようなものそれは子どもたちのつまり素直に純粋に信じる者たちのものです。少し言い換えるなら、小さなものということができるのではないでしょうか。この世界で考えたなら、限りなくこの世的に価値がないように思えるもの、多くの必要の前で取るに足りないようなもの、全く役に立たないと思えるようなものそんな小さなもの。
 貧しいやもめがささげたレプタ硬貨2枚、男だけで5000人の空腹の群衆の前の2匹の魚と5つパン、人はおろか荷物さえ運んだことのないような小さなロバ。そのような小さいと思えるようなものを主は用いられるのです。
 私たちも同じように小さなものです。しかし、主のあわれみを受け、恵みによって救われ造り変えられたのです。また私たちは、周りの小さなものに対して、どのような態度でいるのでしょうか。「わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。」主にそんな風に言わせてしまってはいませんか。 
 あなたの周りの小さなもの、子どものような者に、目が向いているでしょうか。どうせこんなの無理とあきらめてはいないですか。しかし、あなたが行かせるなら、その小さなものは生きるのです。
 砂浜の波打ち際一面に、おびただしい数のひとでが打ち上げられています。ひとりの人がそのひとでを、拾い上げては海に投げ返していました。それを見ていた人がその人のところに近寄ってきて言いました。「何をしているんですか、何千、いや何万ものひとでが打ち上げられているのに、一匹を拾って海に戻していったい何になるんですか。」するとその人は答えました。「確かに何万ものひとでが打ち上げられ死んでいくけど、今投げ返したあのひとでは、生きるのです。」
 一匹のひとでを海の中へ投げ帰すことは、周りの人々から見たら馬鹿げたことかもわかりません、ほんの小さな行為です。しかし海の中へ帰ったひとでにとったら何よりも大きなことなのです。
 今、私たちの周りで打ち上げられ、苦しんで干からび、ただ滅びに向かう人がいっぱいいるのです。今あなたにできることは?                  M.H                      


2017年11月18日 

~ 鏡の中に見えるのは誰
 
 「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなた方はみな、キリストをその身に着たのです」           ガラテヤ3章26節~27節
 罪赦され、神の子とされた私たち。イエス様が下さった大きな大きな贈り物に私たちはどう答えましょう、何をしましょう。
 誰かに贈り物をする時、私たちは「どんな贈り物がいいだろうか」「どう渡したら一番喜んでもらえるだろうか」などなど、あれやこれやと考えると思います。
 また、贈り物がその時だけのもの、ケーキや花束、であったとしても、相手の心に残る事、残り続けることを期待して贈らないでしょうか。
 イエス様の贈り物は「愛」「いのち」
 それは単なる「モノ」ではなく、受け取って味わい続けるなら、使い続けるなら、自分自身だけでなく、自分の周りをも豊かに潤す生きたプレゼントです。
 ですが、もし私たちが贈り物から目を離して、他のものに気を奪われていたり、関心を払っているとしたら、残念な事ですが、その贈り物は増え広がりません。成長しません。
 聖書の言葉によれば、イエス様はご自身を私たちに着せて下さっています。

 鏡の前に立った時、中に見えるのは誰でしょうか。
 もちろん、そこに見えるのは自分自身ですが、もうひとり、肉の目には見えませんが、私たちを覆っているイエス様がおられるのです。私たちが世に現しているのはイエス様なのです。
 ですから、聖書には私たちは「世の光」「地の塩」だと書いてあるのです。
 私たちは、それにふさわしく、この世の旅路を歩むものでありたいと思います。
 神様が私たちに願っている事のひとつは、「神のみ心は私たちが清くなることです」Ⅰテサロニケ4章3節 です。
 そうするために必要なのは、日々、神様の前に立つ、聖書の言葉による教えをいただく事だと思います。こう書いてあります。
 「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」ヨハネ15章3節 言葉が私たちを清めるのです。
 聖書の言葉による力をいただいて、「世の光」「地の塩」として歩んで行きましょう。
 神様への賛美が、感謝が、喜びが満ちあふれる一週間となりますように。お一人お一人の祝福を祈ります!
                              M.S                                         


2017年11月5日 

~ のみ!
 
 “キリスト者はあらゆる事物から自由である。人は義と認められ救われるためになんの行いも必要とせず、ただ信仰によって豊かなこれらの賜物を受け取るのである。”
“善い行いが人を善い人にするのではない、善い人が善い行いをするのである。”
 マルティン・ルターのことばです。
 去る10月31日は宗教改革記念日でした。今から500年前ドイツの大学で聖書学を教えていたマルティン・ルターが免罪符に対する反対論を述べ、自分の見解を九十五箇条で表し、ヴュッテンベルク城内の教会の扉に掲げました。それはたちまちのうちにヨーロッパに広まり、大学や宗教の中心地を揺り動かしました。宗教改革です。
 今年は、その宗教改革から500年にあたります。私たちの信仰もまさにその宗教改革の教理の上に立てられているのです。
 “私は、パウロのローマ人への手紙を理解したいと切に願っていた。途中に立ちふさがっているものはただ一つ「神の義」という表現であった。なぜなら私はその義という語を、それによって神が義であられ、不義なるものを正しく罰せられる義と解釈していたからである。・・・ついに私は神の義とは、それにより恵みと全くのあわれみにより、神が我々を信仰によって義とされる、そういう義であるという真理を把握した。それで私は自分自身が新生したこと、そして、パラダイスへの開かれた戸口を通り抜けていることを感じた。・・・以前は神の義が私を憎しみで満たしていたのだが、今それは私にとって、さらに大いなる愛の内に、言い表せないほどの甘美なものとなった。パウロのこの箇所は、私にとって天国への門となった。”
 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 ローマ3:24
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。 
                        ローマ3:28
 信仰義認、聖書のみ、万人祭祀について今日いっしょに、そこに立ち返り私たちの信仰を見直し、恵みによって励まされ強められましょう。               M.H