2018年, 3月のブログ

2018年3月25日 

~ 始まりは・・・
 
 ブラジルでの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす。バタフライ効果。数年前に話題になりました。どんな大事もはじまりはとんでもなく些細な現象から始まっているということです。
 19世紀ボストンでひとりの靴屋の店員をキリストに導いた日曜学校の教師の話です。教師の名はキンブル。彼の名前は一度も聞いたことはないかもしれませんが、彼が回心させた靴屋の店員の方は知る人ぞ知るドワイエ・ムーディです。ムーディは伝道者となり、フレデリック・B・マイヤーという若き説教者に大きな影響を与えました。このマイヤーが大学のキャンパスで伝道を始め、J・ウィルバー・チャップマンを回心させ、チャップマンはYMCAにかかわり、その中で元野球選手で大伝道者であったビリー・サンデーの集会をノースキャロライナ州シャーロットで開くためのキャンペーンを計画し、モルデカイ・ハムを街に招き説教を依頼しました。そのリバイバル伝道集会でひとりの16歳の青年が人生をキリストにささげました。ビリー・グラハムです。
ボストンの日曜学校の先生は、自分と靴屋の青年との間での会話が、どんな発展を見せるかはわかっていなかったでしょう。
 ホサナ、ホサナと大観衆が叫んでいます。「救ってください、救ってください」と。イエスさまが小さな子ロバに乗って群衆の中へと入って行かれます。このロバはどこから来たのでしょうか、ロバの持ち主は、自分の持ち物がこんなふうに使われることを予想していたでしょうか。それがわかっていてロバを差し出したのでしょうか。主がご入用なのですの一言で。
 日曜学校の先生は、靴屋の店員との些細な会話が、はるか将来に大伝道者を生み出すことを知って行動したのでしょうか。ただ、主がご入用なのです。に応答したのです。
私たちの持っているものも、主がご入用なのです、の声を聞いたなら、主に捧げてみませんか。ためらったり、迷ったりしてはいませんか。遠い将来に、それがどうなるかは、今はわからなくっても。                     M.H
 
                                
        


2018年3月20日 

~ 創世記40章
 
 一か月ぶりに創世記の旅に戻りましょう。前回はヨセフについていっしょに考えてみました。
 ヨセフの生涯には、主がともにおられました。なので、ヨセフの人生は、何をしても栄えるそんな人生でした。もちろん、兄たちに憎まれ、エジプトに売り飛ばされことや、濡れ衣を着せられ、牢屋に投獄され、忘れられと、まさにそこを見れば、波乱万丈の生涯でとても祝福されたとは、言い難いかもしれません。しかし、たとえ両親から切り離され、故郷から切り離され、すべてを失ったかのように見えても、そこから頭角を、めきめきと現し次々と祝福されていく様子は見事な人生です。
 私たちも、何を失ったとしても、どこに放り出されたとしても、しっかりと神さまにつながっているなら必ずや、祝福にあずかることができるのです。
 それはまさに、「水路のそばに植わった木のよう」に、「何をしても栄えるのです」
 今日は、エジプトに祝福をもたらした、そんなヨセフと夢に焦点を当てていっしょに考えて見ましょう。
 主はヨセフに、夢を解き明かす力をお与えになられました。夢と言えばヨセフと言えるぐらいヨセフと夢は切り離せません。夢の解き明かしについては彼の右に出る者はいないそんな存在でした。
 そんな中でヨセフは、神さまの与えてくださった賜物を十二分に発揮し活用した生涯を送りました。自分は、これで立つという一点において賜物を発見し、研ぎ澄まし、自覚して存分に活用しました。しかし、その特別な賜物を決して自分の誇りとはせず、神のみ前にあって、素直に見つめ、認め、活用しました。それは神のみ前に立って自らの個性を伸ばそうとする生き方です。決して神から離れ、自分の能力を誇るものではなかったのです。私たちも神のみ前で造られたものとしての自覚に立ち、与えられた賜物を存分に用いて生き生きとした人生を送りたいものです。  M.H 
                                
        


2018年3月11日 

~ 神を愛する
 
 服従と信頼を学んでいます。ガリラヤのカナでなされた二つのしるしを通して神さまに信頼して従うことをいっしょに考えてきました。そのように歩みの一歩一歩を日々歩んでいますか。奇跡やしるしを見たら従うのではなく、私たちは神さまを愛するからこそ従うのです。
 皆さんは、なにを愛していますか? 
         家族? お金? 仕事? 趣味?
 「はーい、神さまです!」素晴らしい!そうですよね、私たちは、神さまを愛するものです。
 どのように愛していますか?さて、神さまを愛するってどういうことでしょうか?
 愛すると口で言うのは、たやすいことです。しかし、神さまを愛する者ってどんな生き方をしている人なんでしょう。神を愛する人々ってどのような人々なのでしょう。
 聖書の中で、パウロやヨハネそしてヤコブなどが神を愛する者や神を愛する人々といった言い方をしています。そして、そのような人々には、素晴らしい約束が与えられています。でも、果たして愛する者がどのようなものか、私たちは理解しているのでしょうか。神を愛するってどんなことかを考えたことがあるでしょうか。今日、いっしょに考えてみましょう。
 

 皆さんにとって、愛するとはどのようなことですか?私たちは、人を愛します。私は家内や、子供をそして家族を愛しています。家族を愛するって?教会の兄弟姉妹を隣人を愛するって?どんなふうにと聞かれたら、どのように答えますか。相手が喜ぶことをしてあげることとか、相手の幸せのためになることをしてあげるとか、いろいろ、抽象的ではあるけど答えられますよね。そして、神さまが私たちを愛してくださったようにや、自分自身を愛するように愛しますと答えます。では、神さまを愛するって、神を愛する人って、どのような生き方、どんな人のことなのでしょうか。いっしょに考えてみましょう。                        M.H 
        


2018年3月4日 

~ とことん主!
 
 「風光る」季節になってきました。(暴風はごめんですけど)春がこの地に確実に近づいてきています。そして、神の国も・・・アーメン
 今日も、ともに礼拝ができることを感謝します。真の礼拝者たちは、霊とまことによって父を礼拝します。私たちは聖霊の宮として、キリストのからだである教会として、どこにあっても真の礼拝をささげることができるのです。ハレルヤ!世界には、魂に飢え渇きを覚えながら、今も「知らないで礼拝」している人たちがたくさんいます。本当の満足を与えないものに心の満たしを求めては、渇きを繰り返している人々がたくさんいます。そのような人々が真の礼拝者になることを神さまは求めておられます。福音を伝えましょう。すべての人が真の礼拝者となって霊とまことによって父なる神を礼拝しますように。
 ある、王室の役人がイエスさまのところにやってきました。自分の息子が死にかかっているので、下ってきて息子を直してほしいと願っています。イエスさまは言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」役人は「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」イエスさまが言われます「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。なんというシンプルさでしょうか。私は、イエスさまとこの役人とのやり取りを見て正直おどろきます。わざわざ、大きな願いをもってやってきてお願いして、帰っていきなさい直っているからだけで、私だったら帰っていっただろうか、と。何かのしるしは、不思議を求めそれを見るまではとなってしまっていたのではないかと思ってしまいます。しかしこの役人は帰って行って、しっかりと、しるしと不思議を見ました。そして、信じました。その家族のものまでもがみな。
 今日はヨハネの4章からガリラヤで行われた第2のしるしからいっしょに服従と信頼を学びましょう。
                              M.H