2017年8月13日 

~ 安心安全

 ある時、船は大嵐に見舞われ、甲板では弟子たちは右往左往大慌てしていました。ふと、ともの方に目を向けると、そこには、枕をして眠っておられるイエスさまが、、、弟子たちは、イエスさまに従って船に乗り込み、イエスさまといっしょに向こう岸へ渡ろうとしていました。でも、そんな大嵐にあってしまいました。もちろん、イエスさまご自身も大嵐の最中におられます。しかし、イエスさまは眠っていられるほど平安の中におられたのです。弟子たちは、自分たちがおぼれ死んでしまうかのように慌てふためいています。
 どうしてイエスさまは、平安を保っていられたのでしょうか。「イエスさまは、神さまだから当然やん。」確かにそうでしょう。しかし、イエスさまは風邪を叱りつけてから弟子たちに言われました「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことですか」と、私は思います。イエスさまは、ただ父の御心の内を歩んでおられたのです。イエスさまは、言われました「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。」(ヨハネ5:19)イエスさまは自分の行動のすべては父の御心であったのです。そして御心を行っているならそこには平安があるのです。弟子たちは御心を行っていることを理解していなかったのではないでしょうか。自分自身が主の御心の内という最も安全な場所、安心できる状況にいるということがわかっていなかったのではないでしょうか。私たちも主に従っています。主と共に歩んでいます。主がともにいてくださるのです。嵐は起ります。突風は吹きます。でも最も安全で安心できるところを歩んでいくことが出来るのです。主の御心を行っていることが一番安全で安心なのです。主の御心を知って、主に信頼して、すべてを主にゆだねてこの人生を歩んでいこうではありませんか。主はあなたを愛しあなたとともに歩んでくださるのです。    M.H

                                            

2017年8月6日 

~ 恵みの中からキリストのかおりを

 先日センターに向かう途中で、出会いがしら自転車同士でぶつかりそうになりました。少し接触したもののよろけることもなくお互い無事でした。常々気をつけるように、と子どもに注意し、また自分自身もそう言われているのに、あぁ~やってしまった、と思いました。大事に至らず、よかったと、信号を待っている間、主に感謝して祈りました。主が守ってくださっているんだなぁ~としみじみ思いました。日頃何気なく、当たり前のように無事過ごしているこの生活の中に主の御手はいつもあるのだ、今回この少しの自転車の接触があって、改めて思いました。決してあたりまえではなく、守られているんだと。
 私たちは主によって救われ、神の子とされ、光の中を歩むものとされました。主と共に歩み、素晴らしい主の祝福を、喜びを、そして恵みをいただいています。アーメン!!ん?あれ?たしかに救われてんねんけど、神の子とされたんやけど、、、、一応喜びとか、祝福とかもあるねんけど、前ほどはそんなに、、、、と感じておられる方もいるかもしれません。また、そんな時もあるかもしれません。
 主はどんなお方でしょうか?
 *主はあなたを守る方 
 *主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。(詩篇121編)
 *あわれみ豊かな神
 *私たちを愛してくださった 
 *その大きな愛ゆえに、罪過の中に死んでいたこの私た
  ちをキリストとともに生かし、
 *キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、
                        (エペソ2章)
 ハレルヤ!主は素晴らしいお方です!主が私たちひとりひとりにどれほどの恵みを、祝福を与えてくださっているのか、目を開いて、心開いて、今日思い起こしましょう!そして感謝を捧げ、新しく主に出会いましょう!主の喜びに満たされましょう!そのあふれる喜びの中から、恵みの中からイエスさまを伝えていこう!!!!    Mrs.M.H                                            

2017年7月30日 

~ 主の夢、私の夢

 先日ビルウィルソン師の集会に参加しました。いつものことながら大変恵まれました。何がよかったんですか?どんなふうに恵まれたんですか?その答えは・・・そのただ中にある。というと、???となってしまうと思います。
 ビル師の心にあること伝えたいことは、50年間変わることなく、世界中を旅して語られています。日本に最初に来られたのは2003年、私はその時に初めてビル師の集会に参加しました。衝撃でした。涙が止まりませんでした。それから14年がたった今も、同じ情熱をもって走り続けておられます。そしてそのビル師から流れてくるものは、主の愛、失われた魂への情熱に他ならないと思います。それはいつも新しい。なぜなら、主がビル師になしてくださった御わざの偉大さ素晴らしさを、彼自身が昨日のことのようにその御わざを覚え、心から感謝しておられるからだと思います。しかしながら、彼が伝えたいのは、主の偉大なわざが自分になったことではなくて、それがなるために、たった一人の人が、道端に捨てられた少年に目を向けた、手をさし伸ばしたということです。その一つの行為が、その人の人生を大きく変えるものになる、ということを伝え、また、私たちひとりひとりにそれができる、できることがあるとチャレンジしておられると思います。
  かつて、NYの道端で捨てられ、3日間飲まず食わずで、道行く人々は誰も彼を見ようとはしない。何百人もの人が通り過ぎる中で、たった一人、彼に手をさし伸ばした人物、その彼の名を知っていますか?ほとんどの人が知らないと思います。私たちの多くはそのようなものです。ビル師のように世界をまたにかけて活躍することもないでしょう。誰にも覚えられない働きかもしれません。しかしそこにこそ大切な働きがあるのではないでしょうか?誰も知らなくても、小さく見える働きでも、知っておられる方がいるのです。そう、主です。
 主はひとりをも滅ぶことを望んでおられません。それは主の願い、主の夢ではありませんか。私たちもその主の願い、主の夢を主と共に生きようではありませんか。主がお一人お一人になしてくださった御わざが、証があると思います。どんな所から私たちは救われたのでしょうか?主の恵みを思い起こし、新しく主に出会いましょう!主の喜びに満たされて、主に仕えていきましょう!主の願いが私の願いとなりますように。主の夢が私の夢となりますように。       Mrs.M.H